あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　夕方の空はフレッシュな果実の色だった。微かに色が流れ込んだ波が海岸に打ち寄せている。
「良い波がきてるな」
　ギターケースを肩に引っ掛けて新井いたごは足を速めた。好奇に満ちた目を方々に向ける。懐かしいな、と自然に口に出た。
　最初に耳が音を拾った。悲しげなハーモニカの音色は海側から聞こえる。
　テトラポットに背中を向けて座っていた人物に目が留まる。華奢な背中は少女のようであった。
　いたごは視線を向けたまま、少し歩いて立ち止まる。少女の横顔に目を凝らすと、ほんのり色付いた頬が光って見えた。
「あの時はよく見ないで通り過ぎたけど、やっぱり泣いてたのかぁ」
　いたごは空いた手で髪を整えた。前髪に入念に手を入れる。仕上げに白い歯を見せるように笑うと、少女に向かって歩き出した。
「もうすぐ陽が沈むね」
　ハーモニカの繊細な音色に異音が混じる。少女は取り出したハンカチで慌ただしく顔を擦った。
　いたごは自然体で水平線に近い夕陽を見ていた。少女が赤い顔で振り返るまで、同じ姿勢を貫いた。
「ボクもね。この時間帯の海が好きなんだ。ま、立ち話もなんだし、隣いいかな？」
「こ、こんな場所でよければ、どうぞ」
　少女は持っていたハンカチをはたきにして埃を払った。悪いね、といたごは笑いながら隣に腰を下ろした。
「何かあったのかな？」
「……どうして、そう思うんですか」
　少女は海を見ながら頬の辺りに手を当てた。涙の痕跡を消すかのように微かに動く。
「ハーモニカの音色が悲しそうだったから」
　いたごは少女に倣って海を見て返した。
　二人は口を閉じた。静寂を嫌った波が間を受け継ぐ。
「……私、振られちゃったんです。少しは自信があったんだけど、ドカーンって砕けちゃいました」
　少女は俯いた。泣きそうな顔で頻りに瞬きをした。
「ドカーンくらいならいいじゃないか。ボクなんてもっと酷いよ。ドカーン、ドカーンって失恋爆弾を頭に落とされまくって、粉々の振られ王だよー」
「それは酷いですね」
　少女は目尻に指先を当てて笑う。それが最後の涙になるように、いたごは勢いに乗った。
「けど、あれだよ。心配はいらないよ。かわいい上に性格もいいから、素敵な彼氏が絶対に出来るよ。ボクが保証する」
「振られ王の保証は当てになりますか」
「なる、なるよ。これだけはすごく自信があるんだ」
　少女は笑顔で涙を零した。
「なんでだよー。ボク、悲しいこと言ったかな」
「こんな時に優しい言葉を掛けるからですよ」
　なるほどー、と言いながら、いたごはケースからギターを取り出した。
「夕陽がスポットライトみたいに見えない？　テトラポット会場で愛のセッションなんて、どうかな。泣き虫のお姫様」
　いたごはギターを軽やかに弾いた。少女は一つ、小さな咳をした。
「曲はどうしますか」
「ただいま、リクエストを受け付け中です。得意な曲を歌ってよ」
　いたごは見栄えの悪いウインクをした。目に虫でも入りましたか、と少女は悪戯っぽく笑った。
　二人のセッションは夕陽が完全に沈むまで続いた。

　いたごは満足した顔でタキシードの人物の前に立った。
「気になってたことが出来て良かったよ」
「お客様に喜んでいただけて、私も嬉しく思っております」
「本当にありがとう。もう、新婚とは言えないけど、嫁の顔が見たくて仕方がないよ」
　いたごは館を出る直前で振り返った。
「久しぶりに嫁と、ギターで愛のセッションもいいよな」
「奥様もお喜びになることでしょう」
「そうだよな、じゃあ！」
　いたごは大きく手を振って、外に飛び出していった。