あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　背広で身を固めた日向透が思案顔で佇んでいた。
「俺が体験したいと思う過去ですか」
　透はタキシードの人物を見やる。
「そうですね。小学四年の頃に戻って、家を出ようとする母親を試しに止めてみますか」
　第三者が代弁するかのように事情を話した。
「仰せの通りに致します」
　相手の言動をつぶさに見ていた透は、そうですか、と淡白に返した。

　ランドセルを背負った透が家に帰ると、母親が大きなキャリーバッグに洋服を詰め込んでいた。白い腕や脚には青紫色の痣が、ぶつけられた泥のように貼り付いていた。
　透は見透かした顔を子供らしい表情で覆う。
「何してるの」
　突然の痛みに襲われたかのような短い悲鳴を上げて、母親が怯え切った表情を見せた。
「な、なんでもないのよ。ママは出掛ける準備をしているだけ。なにも心配はいらないわ」
「もう、帰ってこないつもりでしょ」
　透は無邪気に言った。母親は驚いた顔を隠せないでいた。金色の髪に手をやると、そのまま掻き毟った。
「ごめんなさい。もう、パパの暴力には耐えられそうにないの」
「知ってるよ。お酒の度に殴ったり蹴ったりだもんね」
「それは、その通りだけど……どうして？」
　母親は我が子を見つめた。訝るような目付きであった。
「でもさ、もう少しガマンした方がいいと思うよ。お酒の飲み過ぎで肝臓ガンになるかもしれないでしょ。保険を掛けてたら、ママがお金を受け取れるんだよ」
　母親は口を閉ざした。手の指が微かに動いている。見えない電卓を駆使しているようだった。
「……そう、そうよね」
　母親の和らいだ表情に透は笑顔を向けた。
　結果、家出は取り止めになった。母親はキャリーバッグを押し入れに収めると、透に晴れ晴れとした表情を見せた。
「今日のごはんは何がいい？」
「カレーかな」
「わかったわ。デザートにはプディングを作ってあげる」
　母親が買い物に出掛けたあと、透は大人びた顔を覗かせた。
「母が父の暴力で亡くなるのか。父の事故死が先なのか。どちらになるのでしょうね」
　テレビのリモコンを手にした透は、次々に番組を変えていった。

　家から大量の酒瓶が消えて空気が清浄になった。
　透は玄関のドアを開ける度に息を大きく吸い込んだ。半ば癖のように視線を下に向ける。
　黒光りする革靴が綺麗に揃えて置かれていた。
「透君、お帰り。お邪魔しているよ」
　若々しい男性が居間から現れた。遅れて薄化粧をした母親が綺麗な身なりで横に寄り添う。
「こんにちは。なんかママと一緒に並んでると、夫婦みたいに見えるね」
　二人の驚いたような表情は瞬く間に笑顔に変わった。
　男性の持参した洋菓子を母親が甲斐甲斐しく取り分ける。三人分の紅茶の香りが居間を満たした。
　各々の席に着くと、男性が溌剌とした声で子供に纏わる話を始めた。母親が話を合わせるように参加。話の区切りが付くと、揃って視線を一方に向けた。
　透は朗らかな顔で期待に答えた。
「そういう、ほのぼのした話っていいよね。構って貰った子供も本当に嬉しかったんだと思います」
　二人は自分達が褒められているかのように喜んだ。透はトイレを理由に席を立った。
　明るい居間から離れた透は冷ややかな目を天井辺りに向けた。
「そろそろ終わりにしませんか」

　辺りは白一色に塗り潰された。
「お気に召しませんでしたか」
　丁寧に迎える相手に透は言葉を掛けた。
「アトラクションとしては質素で面白味に欠けますね。感想は、そうですね。母と一緒に暮らす選択をしていたら、金銭面は楽だと思いました」
　透は澱みのない声で言い切った。即座にドアへと向かう。
「もしも、の話はどうでもいい」
　去り際の言葉には多少の翳りを含んでいた。