やまぬ雨音 - falling of the rain｜リアクション

やまぬ雨音 - falling of the rain

「……以来、あたしは母親公認で父の『愛人』にされたってわけ」
　さゆるの目に見えているのは、歪んだじゅんの口元だけだ。
　自嘲を浮かべているように見える。
　怒りをこらえているようにも見える。
「中学二年のとき」
　煙草を口にしたまま、左手でじゅんは頭をかいた。痒いからというよりも、ただかき回したいからというように。
「あいつ、あたしを抱きながら自慢げに言った……市長選に出馬するって」
　そのときよ、とじゅんは言った。
「あたしの中で、何かが弾けたのは」
　
　じゅんはほとんど夢遊病者のように行動した。
　身じろぎもせぬまま明け方を待ち、薄明かりを見ると透明な糸に引っぱられるようにして寝床から立ち上がる。
　ちらりと『父』の姿を一瞥すると、すり足で台所に向かう。
　締めそこねた蛇口から水滴がしたたり落ちている。水滴が落ちる音を聞きながら戸を開く。包丁を取り出す。ステンレス製、ごく一般的な和包丁だ。薄明を受けて尖端にほの白い輝きが宿っている。
　パジャマの裾で刃先を包み、またすり足で戻る。この間、じゅんは一度もまばたきをしていない。
　逆手で包丁の柄を握る。柄尻（えじり）に右手親指を当て、左手を重ねてしっかりと固定する。
　男の胴にまたがる。同時に両手で包丁を振り上げる。
　振り下ろす。
　冬の日だった。
　また振り上げて振り下ろす。
　外は雪が降っていた。
　振り上げては振り下ろす。
　さらにもう一度。
　滅多刺しだ。
　さらにもう一度。

「雨も雪も、空から降ってくることには変わらない。……だから、どっちも嫌い」
　何本目かの煙草が消えた。
「……死んだの？」
「死ななかった。幸か不幸かね。けどあいつの政治生命という意味なら、完全に終わった」
　事件は、ひっそりとだが報道された。載ったのは地元紙だけ、それも片隅に限定された。未成年の犯行ゆえじゅんの名前は伏せられたが、インターネットという暴力装置は、『姫木じゅん』の名を世界に放流した。現在でも、いくらか調べれば事件の詳細は実名付きで出てくるだろう。
「あたしは殺人未遂で少年院送りになった。ふたりのその後は知らない」
　知りたくもないし、とじゅんはつぶやいたきり黙った。シーツを引き上ることもなく、膝を抱くようにして座ったままだ。
　さゆるはかけるべき言葉を見いだせない。やはり口を閉ざしてじゅんを見つめた。
　数分の沈黙を経て、
「……アリア」
　ぽつりとじゅんが言った。
「え？」
「『魔法少女ミスティックアリア』、一昔前のアニメよ。ここで何度か見せた『魔法少女ミスティックエール』の姉妹作というか、前作」
「うん……」
「『アリア』にね、アニメ史上最悪と言われる鬱回があって、その内容があたしの事件に似てたんだよね。さすがに家庭内暴力とマイルドにしてたけど」
「……ええ」
「こういう話、たぶん日本のあちこちでしょっちゅうあったんだろうね。たくさんの女の子が悲惨な目にあってきたんだろうね。いや、いまだってあるかも。……まあ、滅多刺しにして復讐した女の子はなら珍しいだろうけど」
　瘴気よ、とじゅんはつぶやいた
「こういう夜は特に、瘴気がまとわりついてくるのを感じる。穢（けが）れきったあたし、あの男を刺してから成長を止めたあたしを、あっちの世界に引きずりこもうとしているのを感じる……」
　またじゅんは煙草をふかしはじめた。最後の一本だ。もともとケースには半分以下しか煙草はなかった。