霊界線、浅縹（あさはなだ）駅に出発進行｜リアクション

霊界線、浅縹（あさはなだ）駅に出発進行

　千恵の全身が固まった。取ろうとした山菜が忽然と消えた。
「なんで？」
　不思議に思いながら周囲に目を向ける。深い霧に覆われていて視界はかなり悪い。見える範囲の木々は一様に太く、先端は白く溶けて見えなかった。
「お兄ちゃ――ん！」
　潤む瞳で呼び掛けた。いつまで待っても返事がない。
　千恵は唇を引き結んで一方に歩き始める。太い幹を回り込んで兄の姿を探した。
「千恵は、ここだよぅ……」
　声に合わせて歩幅が小さくなる。心細さで目に涙が溜まり、流れる前にトレーナーの袖で拭き取った。
「だいじょうぶ。怖いことなんて、なにもないよ」
　言いながら立ち止まる。
　――遭難した時は動かないで救助を待つんだよね。山だから麓を目指してもいいし。
　そうだよ、水のあるところに人が集まるってサバイバル生活の前に調べて知ったんだよ。
　ほんの少し表情が明るくなる。すぐに浮かんだ疑問で首を傾げた。
「……動かなかったら麓や水のあるところに、行けないよね？」
　頭に浮かぶ数々の疑問で頭を悩ます。結果として歩き始めた。自分で解決する道を選んだ。
　――迷子は初めてじゃない。慣れっこなんだよ。
　少し歩幅が広くなった。濃い霧は色々と想像させる。下を向きそうになる度に思い切って顔を上げた。
「千恵は強い子明るい子～、どんなことにも向かっていく～。そんな強くて明るい千恵は～、今日も元気に歩いてゆく～」
　大きく腕を振る。スカートを揺らして霧に立ち向かう。目を忙しなく動かし、少しの変化も見逃さない態勢で臨んだ。
　霧に流れが生まれた。視界が改善に向かう。
「本当に九夜山？　見たことないんだけど……」
　右前方で枯れ葉を踏むような音がした。薄まった霧の中に人影のようなものが見える。
「もしかして人！？」
　細長い影はすっと奥に消えてゆく。
「待って、迷子なんです！」
　千恵は追い掛けた。枯れ葉を蹴散らし、滑るようにして足を止めた。
　古めかしい木造の家が佇む。出入口に当たるガラス戸は開けられていた。瓦屋根の下に掲げた板には『月見うさぎのお宿』と墨の文字で書かれている。
「御用でしょうか」
　その優し気な声に千恵は目を正面に戻す。和服に身を包んだ女性が立ち止まった姿で微笑んでいた。
「迷子になって……あの、その耳は本物、ですか？」
「兎人（とじん）を見慣れていないご様子。あなたは人間ですね」
「そうです。寝子島で山菜を採っていたら、ここにきていて」
「霊界で独り、とても心細かったでしょう。お腹は空いていませんか？　ゆっくり召し上がっていってください」
「その、お金がなくて」
　千恵はスカートのポケットに手を突っ込む。やはり財布は入っていなかった。
　愛らしい姿に兎人は微笑む。
「その手にある物は山菜でしょうか」
「あ、そうです。九夜山で採りました」
「それは貴重ですね。お代は山菜で結構です。女将の私に任せてください」
　千恵は快く受け入れられ、一室で珍しい山の幸を堪能する。
「お兄ちゃんは、どうなったんだろう」
　箸を止めた千恵に女将は長い耳をくるくると回す。
「探しているようです。食べ終わったあと、ここから真っすぐに歩いて、突き当たった線路を左手に進んでください。天然の温泉が湧いていて、そこで会えると思います」
「教えてくれて、ありがとう」
　元気を取り戻した千恵はにこやかに食事の続きを始めた。

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