Monster｜リアクション

Monster

「……戻れなくなった。あの女に」
　――って、ナターシャ・カンディンスキーさん！？
　梓智依子は目を見張った。
　昨夜、智依子はアルバイト先（巨大玩具店『おもちゃのハローニャック』）の同僚クリス・高松が一種の二重人格者であることを知った。女性としては異例の一九〇センチ前後の長身なのに、気が弱くいつもおどおどしているクリスのなかには、ナターシャなる攻撃的な別人格があるという。
　といってもナターシャによれば自分こそがこの体の正当な所有者で、クリスに体を明け渡しつつあるのが真相らしい。
　しかし昨夜の事件を予期してか、クリスはナターシャに自身の体を譲った。『マウス』なる怪人物の襲撃はあったが、かかわってくれた人たちのおかげで事件はなんとか収まった。マウスに追われていた少女、脇坂香住（わきさか・かすみ）はみずから進んで児童自立支援施設に戻ったそうだ。
　めでたしめでたし、でいいと思う。おおむねのところ。
　だから当然、クリスの肉体はクリスに戻るはずだと智依子は考えていたのである。
　ところがクリスの体からナターシャは去っていなかった。現在、智依子の前にいるのは見た目こそクリスだが、実際はナターシャだというのだ。まずまちがいないだろう。猫背気味だった背がしゃんと伸びている。目つきが異様なほど鋭い。抜き身のナイフを突きつけられているような凄みがあった。
「どうすればいい？」
　しかし尊大な口調のかげに、困惑と怯えを智依子は感じとっている。
　――「どうすればいい？」と聞かれても……こちらが聞きたい。
　正直にそう返答したかったが智依子は言葉を呑みこんだ。
　自称するところによればナターシャは某国の元エージェントで、暗殺や破壊工作をになってきたのだいう。昨夜も、金剛力士像みたいなマウスを果敢に転倒させるさまを目撃している。そんな危険人物に直言するのはためらわれた。
　だけど、それ以上に――。
　ナターシャが困っているのは事実だ。わらをもつかむ気持ちですがってきた人間を、『知りません』と切り捨てて放置することはしたくなかった。
「とにかく、しばらくは高松さんのふりをしてもらうしかないと思います。元に戻る方法はそれから考えましょう」
　わずかな安堵と新たな不安、そのミックスのような表情でナターシャは言う。
「できるだろうか、私に」
「私が協力します。仕事のフォローもできるだけしますよ。なんとか今日一日乗り切りましょう」
「助かる。梓……さん、呼び方、これであっているか？」
「あっています。高松さん」
「すまない。頼んだ。しかし……梓さん」
　ナターシャは一拍おいてつづける。
「あんたには何の得もなかろうに、なぜ協力してくれる？　正直、断られても仕方がないと思っていた」
　それを聞いても智依子はむしろほっとした。また別の困難でも抱えているかと思ったのだ。
「高松……いえカンディンスキーさん、世の人すべてが損得勘定で動いているわけじゃありません。困ったときはおたがいさまですよ」
　そうか、と言ってしばしナターシャは言葉を失ったが、ややあってこう告げた。
「この恩は忘れない。いつかかならず義理は果たす」
「義理だなんてそんな」
「約束は守る」
　クリスではなくナターシャは、こうなってはテコでも動かないタイプらしい。仕方なく「そのときはお願いします」と応じて智依子は業務に戻るのである。
　バックヤードの扉がバタンと大きな音を立てた。
　よく日焼けした巨体、筋肉質で引き締まった体つきの男が肩で風を切るようにして出てきたのだった。短く刈り込んだ髪とゴールドのネックレスの組み合わせは、智依子の目にはどうしようもなく悪趣味に見える。
　店長の我妻（あずま）が警察署から戻ってきたのだ。苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
　長い一日になりそうだ。

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