単眼の巨人、ただしくはそのフィギュアだ。高さは十二センチ半程度、中央部の丸く穴のあいた半仮面をつけ獰猛な表情でこちらをにらんでいる。想像上の怪物なのに筋肉の隆起はやけにリアルで、剥き出しの腕や太ももに青白い血管が浮き上がって見えるほど造形も細かい。台座は金属製でずしりと重かった。『Ganymede』というプレートがつけられている。
　巨人像を棚に戻し、エレノアは翡翠色の瞳を細めた。
　フィギュアの完成度に感じ入ったためではない。いや実際よくできてはいたが、エレノアを刺激したものは別、偶然見かけた人間の姿だった。
　紅。本名を芋煮紅美。
　エレノアはよく覚えている。彼女のことを。
　ある学習塾の子どもたちで小集団を組み、正義の名のもとストレス発散の手段として援交狩りをしていた少女だ。みずからを餌として援助交際サイトで買い手を募集、まんまと釣り上げた男性を集団でとりかこみ私刑を執行するのである。
　贄（にえ）となったのはたいてい中年で、ときに社会的地位の高い老人もあったようだ。引け目があるゆえ被害者らは沈黙を守ったため、ほとんどのハンティングは表沙汰になっていない。実際の重傷者は多数あっただろう。子どもたちは金属バットや特殊警棒も使っていたというから、暴力はいつか、引き返せない地点に到達していた可能性が高い。
　ふとしたきっかけでエレノアは援交狩りの情報をつかみ、ある夜の現場に介入、結果的に事件を解決へと導いた。
　されどことの善悪には興味がなかった。エレノアにとってはただ、『地元の猟友会』がひとつ解散しただけの話である。
　月日は流れその後エレノアは、別の状況で紅と再会した。
　舞台は、引きこもり矯正をかかげた教育施設だった。EABという社会福祉法人が市の委託をうけて経営していたのである。だが実際は、社会貢献を名目とした牢獄だった。引きこもりの人間を家庭から引きずりだし、治療と称して閉じ込める。それで高額な料金をとり市から援助金までせしめていたのである。
　紅は当時、施設利用者という名の収容者だった。
　心神を喪失していた彼女にエレノアは近づき、ひとつの啓示を与えようとした。幸か不幸か試みは実現にいたらなかったが。
　ゲームショップといってもこの『クラン＝G』は、商業ビルのテナントといったよくある形態をとっていない。閉店したファミレスを居抜きで買い取った広い平屋の店舗なのである。ネット通販の倉庫も兼ねているため商品は豊富で、ちょっと散策するだけで数多くの面白いもの珍しいものに出会うことができる。
　この日、エレノアの収穫はカードゲームやフィギュアではなかった。暇つぶしに店内をまわっていたとき、レジのあたりに紅の姿を見いだしたのである。
　さりげなく棚に身を隠し様子をうかがう。
　喜怒哀楽が洗い落とされたようなかつての彼女とはちがう。紅はよく笑い元気に会話していた。
　それでも、見たものをそのまま信じるほどエレノアはお人好しではない。
　実際に口にしたわけではないのに、エレノアの口中にチョコレートの味がひろがった。舶来品ゆえか酸味が強い。濃厚でカカオの匂いも強く、うんざりするほど粘り気のあるヌガーが加えてある。決して美味ではないのにときおり欲しくなる味。銘柄は『ドラガン・ジヴァディノフ』だ。まちがいない。
『ひとというものがそんなに簡単に、変われるものだと思われて？』
　もしここに胡乱路 秘子がいたら、きっとこう言うことだろう。
　EABでの解放は不発でしたか、まあもう一度接触してみましょう。
　身をかがめ早足でレジ前を横切ると店から出て、大急ぎでエレノアは自宅を目指した。

　走るのは得意ではないが、それでもさして間をあけることなく、エレノアは『クラン＝G』が見えるあたりまで戻ってくることができた。
　エレノアは白い帽子を目深にかぶっていた。肩からは荷を提げている。とりたてて特徴のないトートバッグである。色は黒、スポーツブランドのロゴが入ったありふれたものだ。
　ただし中身は、けっしてありふれたものではない。女子高生が平然と持ち歩くにはあまりに異様だった。
　ひとつはペットボトル入りのミネラルウォーター、これはおかしくない。
　だがもうひとつは、布でくるんだアイスピックだ。握りは赤。針は鋭く細く、長い。
　スマートフォンで会話するふりをしながらエレノアは『クラン＝G』を見張った。
　エレノアの目の前をパトカーが横切った。平然と見送る。
　警官の職務質問を受けるはずがない。風体のあやしい男ならともかく、自分はただ散歩しているだけの女子高生だ。もっとも、実際に職質を受けバッグの中身を見せろと言われれば，いささか不穏当なことになるだろうが。
　二時間はど待っただろうか。
　ようやく店から紅が出てきた。背中に小さなデイパックを背負っている。
　十分な距離を取ってエレノアは後を追った。
　問題は紅が単身ではないということだ。店で話していた少女と連れだっている。
　少女のほうは店のロゴが入ったビニール袋を手にしていた。何かしら購入したものらしい。
　焦ることはないでしょう。
　薄笑みを浮かべエレノアはふたりについていく。歩みがゆったりなので見失うおそれはなかった。帽子の鍔はけっして上げない。
　やがて紅は少女と別れた。
　それでもエレノアは急がなかった。周囲に人気が少なくなってからでいい。
　またパトカーが一台、脇の道路をかすめていった。アイスピックを取りだすにいいタイミングではなさそうだ。
　紅が住宅街に入った。
　人通りもたえた。
　いよいよ頃合いだ。
　待ちましたよ。
　エレノアは手早くペットボトルを開栓し、包みからアイスピックを抜いた。針を布ごしにつかんだまま、握りの部分をたっぷりと水で濡らす。
「すみません、これ落としましたよ」
　呼びかけて帽子を取らぬまま、紅のもとに駆け寄る。
　有無を言わせず柄を、ぐいと紅の右手につかませた。虚をつかれた彼女はなすがままだ。それでも慎重を期してエレノアは、空いた手で紅の手首を握りしめていた。
　ふふ――。
　心のなかで笑むとエレノアは『ろっこん』を発動したのである。
　オールド・ジョークと名付けた能力だ。エレノアは液体を強力な接着剤へと変えることができる。
　ようやく状況を理解したらしい。紅は身をよじり逃れようとしたがエレノアは手を放さなかった。
「暴れないでください！　そうそう私は催眠術が使えるんですよ、私の目を見て？貴女はこれを手放せなくなる……ほら！」
　これはあくまで建前だ。ひと相手だとろっこんが効きづらいので催眠術という表現を用いたにすぎない。
　エレノアの帽子が落ちた。

「せっかくの手助けをふいにされてお姉ちゃん悲しいですよ……EABでのときとは格好がちがいますからピンときませんか？」
「あんたは……！」
　エレノアはニタリとチェシャ猫の笑みを浮かべる。
「元気にしてました？」
「放して！」
　紅が鋭い声を上げたがエレノアは平気だ。
「手ですか？　放してますよ、私はとっくに。でも貴女はそうじゃない」
　指で示すと、紅から血の気が失せていくのがありありとわかった。
　紅の右手は、アイスピックを逆手に握ったまま開かないのだった。
「催眠術……マジで……？」
「貴女の本心かもしれませんね。『手放したくない』という」
「ふざけ……！」
　紅は右手をふりあげ、はっとしたように下ろした。
「おや？　なかなかサマになった構えかたでしたが、やめてしまうので？」
　紅はまた叫び出しそうになったが、歯を食いしばって手を下ろした。エレノアの背後を気にしているようだ。さっき別れた友人が、追ってこないかと不安に感じているのだろう。いまの紅にとって、これは絶対に見られたくない姿のはずだ。
「まあまあ落ち着いて」
　おだやかにエレノアは呼びかける。
「おしゃべりしましょう、ついて来てください。アイスピックはポケットで隠せばいいでしょう……」
「嫌よ、誰があんたなんかと」
　その回答は予期していたのでエレノアは冷然と言い放った。
「嫌だ？　じゃそのアイスピックは永遠に張り付いたままだ」