怪物｜リアクション

怪物

　とくに予定のない休日を、不安に思う者もあれば満喫する者もあるだろう。
　羽奈瀬リンは後者だった。小さなトランクを手にさげて歩く。
　どこを目指しているわけでもない。しいていえば、落ち着いて読書ができる場所があったらいいなとだけ願っていた。知っている猫との再会もほんのりと期待している。
　トランクの中身は主としてふたつだ。
　大判の書籍と、にぼし。
　書籍というのは空の写真を集めた詩集だった。見開き一面の写真があり、それぞれに平易な詩が添えられている。
　写真のモチーフはすべて夜の空だ。しかしどの写真もまったく似ていない。ページをめくるたび、別世界のような星空があらわれる。
　吸い込まれそうになる深遠な星海。
　高山からながめた黎明の空。
　オーロラのカーテンがおりた北極海の空もあれば、赤みがかった砂漠の夜空もあった。熱帯のぎらぎらする夜空も。
　リンにとっては特別な一冊だった。昔スピカと一緒に読んだ本だったから。
　リンの心に強い印象を残したあの子は、詩のひとつひとつを声に出して読み、リンにも唱和するように求めたのだった。リンとスピカの声はまじりあって高い空に昇り、その一角をほんのすこし、削ったように思えた。
　天気もいいのでどこか気持ちのいい場所で、読むでもなく眺めるでもなく、いわばその両方がいりまじった気持ちで星空の世界にふけりたい、そんな思いだった。
　そしてにぼしというのは……詳しく説明する必要はなさそうだ。
　ちょうどそれを必要としている子が、リンの前に現れたから。
　廃棄された給水塔のそばだった。先日ここで奇妙な、けれども素敵な出会いをしたせいか、ついまた来てしまったのだ。
　あいかわらずサビだらけに朽ちて、それでも傾（かし）ぐことなく塔は立っている。円筒形のタンクを頭部に見立てれば、細長い脚で立っている姿は宇宙人のようでもあった。
　給水塔の脚、そのひとつの影から黒い姿がするりと姿を見せた。
　猫だ。
　ひじき、とリンは猫に呼びかける。
　きれいな青い眼をした黒い猫、毛並みが真っ黒だから名前はひじき、若猫だ。知的なまなざし、しゅっとした顔つきの美猫だった。男の子か女の子かはちょっとわからない。
　ひじきは鳴きもせず給水塔のたもとから姿を見せて、したしたと歩み寄るやスリッとリンの足首に一度だけ体をなすりつけ、くるり反転してまたしたしたと歩き出した。どこへ行くのだろう。
「ひじき、にぼし食べない？」
　リンが呼びかけトランクから取り出したパリパリのにぼしを見せても、猫はちらりと見ただけで前にむきなおった。「あとで」と言っているかのようだった。