母の日は、甘え日｜リアクション

母の日は、甘え日

　その衝動、吹き荒ぶ嵐がごとし。平時からおっとりが過ぎる御巫時子であってもその影響は例外ではなかった。
（……甘えたい……です）
　言葉に表すのは難しい。あえて比喩的に表するなら、煮え滾るマグマ。その噴出といったところか。抑制などまるで無意味に感じられた。
　だから理科準備室へ今まさに入室せんとする五十嵐尚輝の背中を見つけた瞬間、しまった。そう思った。
　だが遅かった。
「尚輝先生……っ」
「おや。こんにちは御巫さん、今日は早いですね。あれ」
　気づいた時には駆け出していたし、彼の腕をやや乱暴に引っつかむと室内へ押し込んでいた。硬い床へ彼を押し倒していた。
「御巫さ……時子、さん？」
「私、もうっ……我慢できません……！」
　この時押し付けられた彼女の豊かな肢体の感触が、いかな朴念仁とて教員として務まるだけの倫理観の持ち合わせはあろう化学教師の脳裏に走らせた感情がいかなるものであったか察することはできないが、少なくとも時子の想いは語るに及ばず。真っすぐなものだった。
「甘えてください。甘えさせてください……っ」
「……はい？」
　そう、本日は「甘え日」であった。

　ひとしきり彼を抱きしめてその細身やモサモサ髪の撫で心地を堪能した後、時子は衝動迸るままに彼を校外へと連れ出した。
　この時彼女の一つ理性的であったのは、ちょっと待っててくださいね、どこにも行っちゃイヤですよと言い置いて、寝子高制服を洋装に着替えたことだ。教員尚輝を甘やかすにあたり彼の負担の一切は排されるべきであり、対外的に教え子とイチャイチャする淫行教師のレッテルを張り付けるわけにはいかないとの配慮からだが、まあその点については杞憂ではあった。なにしろこの日は神魂の影響も濃密なあやしき風が吹いており、ふたりがいかにぴたりと張り付いていようとことさらに倫理の是正を叫ぶような輩はいなかった。着替えは単純にデート気分の演出として役立つこととなった。
「先生。何をしてほしいですか？　何でも言ってくださいね。今日はとことん、先生を……甘やかしてしまいますから」
「ええと」
　実のところ不可思議の影響は、尚輝本人には及んでいなかった。彼は戸惑いながらも、またぞろ奇妙な夢であろうと多少なり納得したか、絞り出すように言った。
「では、少し休みませんか。喫茶店かどこかに入って、ちょっと、落ち着きましょう」
「はいっ。あ～んして、食べさせてあげますね……！」
「あ、はい」
　見るも巨大なチョコレートパフェを手ずから彼の口に運ぶたび、時子の衝動は満たされていった。

　やさしく穏やかな風が吹き抜けてゆく。
　海浜公園の芝生に下ろした時子の膝へ、尚輝は頭を預けている。長い前髪に隠れた彼の心中は傍目に計れないのだが、時子とはきっと通じ合っているのだろう。なぜなら彼はまるで油断した様子で、寝息を立てていたから。
「ふふ……」
　そんな彼の頬を、時子は戯れにつつく。
「ん……あ、時子さん。眠ってしまいましたか」
「とっても可愛い寝顔でした。でも……ちょっと、寂しくて」
　見下ろせば長い髪がはらはらと肩を滑り落ち、時子と彼は二人、艶めく黒いカーテンで外界から閉ざされる。
　彼の前髪をそっとかきあげ、隠された神秘を覗く。目の当たりにできるのは、時子ただ一人だけだ。
「何をしてほしいですか？　甘えて、いいんですよ」
　戸惑う彼は神魂や衝動に縛られてはいなかったが、やがてほのかに頬を染め、か細くも言った。
「……頭を撫でて、もらえませんか」
　あえて口を開かず、時子はただそっと、鳥の巣めいた彼の髪へ指を差し入れる。癖っ毛が指に絡みつく感触さえ愛おしい。
　そこから先は言葉もなく、ただただやわらかく時が過ぎていった。

　一日の終わり、布団の中で我に返った時子が一人その日を思い返し、茹でダコよろしく真紅に頬を染めたのは誰にも秘密のことである。
（明日、どんな顔して尚輝さんに会えば……）
　まあ、安心していい。きっと視線は合わないだろう。彼も今頃、同じように身悶えているだろうから。

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