母の日は、甘え日｜リアクション

母の日は、甘え日

　目を伏せれば、なじる顔が浮かんでは消えゆく。耳を塞いでも怒号は止まらない。頬に残る衝撃と熱さが癒える時は来るのだろうか。
　もしかしたら違う選択がどこかにあったろうか、と思うことはある。つまり妊娠が発覚した時、周囲の有象無象が騒ぎ立てたような選択肢のあれこれだ。道は確かにいくつか示された、しかしそのどれもが彼女へ凄絶なる代償を要求した。臆面もなく、十四歳の少女が容易に背負えるはずもない責任をだ。
　自業自得か？　かもしれない。彼らは確かにそう叫んでいた。しかし十四だ。真に自制すべきは大人の男であったろうし、彼女の保護者を称するならばまずは寛容、そして慈愛を示すべきであったろう。
　結局男は二度と現れなかったし、小心かつ狭量な者たちが繰り返すのは世間体をいかに保つかの話だけだった。
　彼らは刃を持っていた。なまくらだが切っ先は鋭利だ。それさえ手離せば、家族を抱きしめることくらいできたはずなのに。

　それから四年だ。軽く語れるわけもない。
　梓智依子の胸は時折痛む。彼らはそこを抉ることだけにご執心だった、それ以外の仕草を忘れてしまったかのように。
　膝を曲げ、縮こまる。空いた穴から魂が逃げ出してしまわないよう。虚ろに呑まれてしまわぬよう。
「ママー？　どうしたの？　くるしいの？」
　……などと、一人耐えていたのも昔のこと。
　今や思い出の舞台は波打ち際。浮かぶ顔は娘一色だ。
「ううん、何でもない。今日の晩ごはんは何にしようかなー、って考えてただけ」
「あ、あれたべたい！　あれ！」
「あれ？　どれ？　ニンジンがいっぱい入ったサラダかな？」
「ちーがーうー！」
「ふふ、分かった。ハンバーグだ」
　きゃきゃ、と笑った。無垢な楓は天使のようだ。決して親バカではなく、実際そうなのだ。と、智依子は思う。
　サンダルを濡らして白波へ駆けてゆく娘をどうにかつかまえて、脇をくすぐってやる。高く抱き上げて飛行機の気分を味合わせてあげたり、そのままぐらりと傾いてぎりぎりを保ちスリルを楽しむという遊びに興じた。
　そのたび、智依子の胸の穴が埋まってゆく。そのたび、確信に至る。正しい選択を下した自分を誇らしく思えた。
　娘を見つめる瞳が潤む程に誇らしかった。

「ママ、ちょっと遊び疲れちゃった。少し休ませて」
　神魂は唐突だが、智依子に限ってはその下地もあったことだろう。
　何しろ今日は「甘え日」なのだ。終ぞ甘える機会などなかった智依子には、耐性のあろうはずもない。
「……楓。ねえ、楓。ちょっとこっち。来て」
「えー？　いま、おしろつくってるの」
「うん。ほら、いいから。ね」
「えー」
　ぷうっと頬をふくらませながらも、楓はプラスチックのスコップを砂に放りだし、広げた智依子の腕へ飛び込んできた。
　抱き締める。思うさまに。
「ああ……」
「ママ、あかちゃんみたい。あまえんぼー」
「うん……そうね。ママは赤ちゃんなの。甘やかしてちょうだい？」
「へへー」
　新しい遊びと思ったのか、おままごとよろしく楓は智依子の頭をたどたどしく撫でた。
「ママ、いいこ、いいこ」
　甘い香りがした。楓をそうして鼻腔いっぱいまで堪能して、またひとしきり抱きすくめた。
　幼い娘に甘やかされたい、などという衝動は智依子を当惑させたものの、それが満たされることに抵抗はできなかったし、この心地良さは自分だけの特権だとも思う。
　祖母は智依子を甘やかそうとしてくれるが、あまりそれを受け入れようと思ったことはなかった。拒絶ではなく自立の証を立てているつもりだったが、思えば二人にも寂しい思いをさせていたのかもしれない。
　帰ったらもう少し、甘えてみようか。砂浜に吹くややぬるい風が、智依子にそんな気持ちを抱かせた。
「いいこ。いいこ」
　いつしか智依子は眠りに落ち、夕食の支度が間に合わずハンバーグは後日にお流れとなったが、その日の楓は終始ご機嫌であった。

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