泡沫の揺籠｜リアクション

泡沫の揺籠

　不思議の力を宿す箒や魔法具を作り出すその手を伸べ、ノエル・バレは藤色の瞳を穏やかに細めた。

「良い朝ですね、狭間の君」
　窓から流れ込む朝陽を受けて花の色の如く静かに揺らめく瞳に、弥逢遊琳は小さく肯う。
　伸ばされた手に手を重ねれば、その手の優しい温もりに安堵を覚えた。
　このてのひらから作り出されたものが、己に安息の眠りを与えてくれる。
　その眠りに目覚めがあるかどうかは、──今は、分からなかった。
　静かに眠り続ける目的にも経緯にも多少の悲痛が在る。けれど、
(僕の選択は、寧ろ未来の為にこそ)
　確かに、そう思う。目覚めが絶対でなくとも、
(僕はずっと僕で)
　ノエルのてのひらが遊琳の冷たい指先をそっと包み込む。
「こちらへどうぞ」
　導かれるに任せて一歩前へと踏み出せば、たとえば気が付けば朝から夕へと、白く眩しい光から淡く涼しい淡紫の光へと変わっていた窓の外の景色に似て、周囲を取り巻く全てが色を変えた。
　確かに己の目前にあった世界がふわりと解け、瞬きもせぬ刹那の間に別の世界を構成する。
　──そこは何処でもあって、何処でも無い部屋。
　穏やかな光と温もりに満ちた部屋の央には、清かな風にも涼しく揺らぐ乳白色のレースの天蓋に護られた寝台。
　寝台の周囲には、閉ざした瞼の裏には届かぬほどの払暁の灯を宿して浮かぶ雪洞がいくつかと、眠りへ誘う柔らかな香を湛える花と樹たち。
「この部屋には、鍵があります」
　ノエルは部屋の央ではなく、一角の扉の前へと遊琳の手を引く。
　柔らかでありながら何者の侵入も阻む繭の色した壁と同じ色した扉には、古びた鍵が取り付けられていた。
　藤色の瞳に鳩羽色した睫毛の陰を落とし、ノエルは扉の脇の花を象った鍵掛から妖精の翅を思わせる華奢な鍵を取った。己の手の代わり、それを遊琳の手に掴ませる。
「『鍵を掛ける』と云う行為は」
　美しい花を見守るようなまなざしを遊琳へと向ける。
「そのものの価値を認め、庇護する行為だと私は思います」
「……うん」
　ノエルの手を離れ、遊琳は己のために用意された部屋を見回す。雲の上を歩くようにそうっと一歩を踏み出す。
　微かな足音さえも吸い込む白木の床をゆっくりと歩く。
　部屋を満たす雪洞の灯はどこまでも柔らかく優しく、花と樹の香に満ちた空気は冷えた指先や爪先をふうわりと温めてくれる。
　ただ心地好いだけで止まっているかのような、部屋。
　それを作り出すことがどれほど難いのか、そのかたちをそのかたちのままに永遠よりも長く留めておくことがどれほど難いのか。少なからずものを作ることのある遊琳にも、その難さは容易に想像がついた。だからこそ、彼の仕事の完璧さを理解する。
　部屋にある全てが、己を眠りに導き護るためのもの。
　部屋の隅、そのために用意されたかのような空間に、ここに来るまでどうしても手放せなかった荷物を置く。この結末に至るまで、唯一どうにもならなかった荷物。荷物の上に鍵を置く。その傍らに靴を脱いで揃え、素足で床に立つ。
　素足に触れる樹の床は、温かくも冷たくもなかった。体温と同じ温もりと肌と同じ滑らかさを、溶け込んでしまいそうな心地よさを足の裏に覚え、遊琳は小さく息を零す。

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