たとえば、月の光を孕んだ蒼い霧の宙のような。
たとえば、月影の揺れる温かな海の底のような。
柔らかな眠りの中、不意に冷たいナニカが手を掴む。腕を掴む。首を掴み胸を掴み胴を足を掴み、光の届かぬ霧の底へと引きずり込む。もしくは荒波逆巻く海上へと引きずり上げる。
息苦しさにもがくが如く瞼をこじ開ければ、閉ざしたカーテンの隙間から朝陽の白光が差していた。床を這い、ベッドの枕元にまで届いて瞳に触れるその光が、
──それではダメだ
──お前は、望まれているのだから
身を苛む呪いにも似て、そう告げている気がした。
繰り返し繰り返し、朝は訪れる。月が朝陽に溶けて消える度、闇の只中へと突き落とされるように目が覚める度、己の今在る世界は、──現実は、突きつけてくる。
──それではダメだ
もう何年も、繰り返し繰り返し。朝陽が押し寄せてくる度に、誰かの手や声が眠る己に触れる度に、直接的にはそれらではないナニカが、代わる代わる
弥逢 遊琳に告げる。
瞳を焼く陽の光から逃れるように身を捩る。それでも、一度目覚めてしまえば再び微睡むことは許されない気がした。
(……誰に?)
自問自答の己の声さえも胸に刺さって、身を起こす。
高校を卒業して、星ヶ丘寮を引き払って。『しなければならないこと』はひとつきりしかなかった。
故郷に、帰らねば。
末妹の待ち詫びているあの家。家族の居る、『弥逢』の家。
けれどそれが出来ずに、今は星ヶ丘のホテルに過ごしている。
いつ寝てもいい、いつ起きてもいい。それでも朝が来ればこの身体は現実に立ち戻らされる。あの家で染みついてしまった躾によって、きちんと身支度をして、きちんと朝食を採る。そうせねばならないと、教え込まれている。そうあらねばならないと、刻み込まれている。
重たい身体をベッドから落とそうと、身支度をしようとする己の意思に抗うように、己の膝を抱え込む。身を固くして蹲る。
「僕はただ、」
喉の奥から、嗄れた声が零れた。
「静かに眠りたい」
ただただ、そう願った。徹頭徹尾、弥逢遊琳だけがそう望んだ。
死を望んでいる訳ではない。
(それは、違う)
棺の中、死に化粧を施されて横たわる遺体は、化粧で飾り立てても尚、心や魂に生々しい傷を残す。そのことを、経験として知っている。
薄い胸を抑える。指先はひどく冷え切っているそのくせ、胸は温かかった。心臓が確かな鼓動を刻んでいた。
自分などを友と扱った人たちに、自分のせいで傷ついて欲しくない。
自分の辛さの種である家族にも、そんなかたちで、
(『復讐』したい訳ではない)
それは確かだった。
(……ただ、)
繰り返しやって来る朝が辛くなっただけだ。
(ただ、……)
ふわふわと、淡い夢に浸っていたかった。何に遮られることもなく、ふわふわと、ゆらゆらと。
『誰かの望む者』にならなくていい時間が欲しかった。
自分だけが望んでいるような自分で居続けていい、そんな時間が欲しかった──
カーテンの僅かな隙間さえすり抜けて、眩しい朝陽が襲い掛かって来る。
(……僕、は……)
軋む身体を起こす。シーツを掴んで強張る指を一本ずつ引き剥がし、ベッドから下りる。ほとんど何も入っていないクローゼットを開けて身支度を整える。今やたったひとつだけになった荷物を手に、仮宿を引き払う。
初夏の光を跳ねさせて笑う緑を蜜色の瞳に映すこともなく向かったのは、エノコロ岬。人気の無い岬に立って朝の光を眺めやれば、青い海の上に浮かぶ不思議の塔──普通のひとには見えぬ『星幽塔』が見えた。
「……【睡蓮】」
手にした小ぶりな箒にそっとお願いする。
星幽塔にある箒と魔法具の店『sweep∽sleep』で託された意志持つ不思議の箒に横座りに身を委ねれば、箒はふわりと宙に浮いた。その不思議の力で以て、遊琳の身を星幽塔にまで運んでくれる。
向かうは、【睡蓮】を創り出した『sweep∽sleep』の青年のもと。一三七〇年の終わりにその名を知った、
ノエル・バレのもと。
『普通』の世界では邂逅叶わぬ、さまざまな姿をした人々でにぎわう星幽塔第一階層の城下町のその一角、石造りの二階建ての住居兼店舗の前で足を止める。
陽の差しこむ大きな窓から見えるのは、店員たちから『店主』とも『作り手』とも呼ばれる、店内ではその姿を見られることのない者の手による箒。
「おはよう」
『sweep∽sleep』の小さな看板が掛けられた扉をそっと開ければ、ふわり、薄荷や黒文字にも似た爽やかな香りが頬に触れた。
そのひとだけのものを誂える店であるためか、店内に既製品はほとんどなく、その代わり、店の央に設えられた円形テーブルに魔法具の材料となる素材が宝石箱に似た箱にたくさん納められている。
宝物のような素材の向こうには、鳩羽色の髪の青年が居た。
──それは、普段であれば店先に居るはずもない、箒と魔法具たちの製作者。
「お早うございます、狭間の君」
彼だけが口にする名で呼ばれ、遊琳は呼吸を取り戻したように小さな息を吐く。
藤色の瞳に朝陽を揺らがせ、年齢不詳の青年は店の奥のカウンターテーブルへと遊琳を誘う。
(会えると、思った)
だからこそここに来た。この手の勘は、外れた試しがなかった。
(僕はただ、静かに眠りたい)
その願いを唯一叶え得るのは、今目の前にいる彼だ。
大晦日のあの日にそれを願って、けれど一度は寝子島に立ち戻った。残る問題は多くあるからと。破談の可能性もあるからと。
──けれど。
繰り返し繰り返す目覚めの果てに、弥逢遊琳は選んだ。
だからこそここに来て、微笑む彼を前に淡く笑む。彼の名を口にする。
「ノエルさん、来たよ」
お待たせいたしました。
プライベートシナリオをお届けにあがりました。
この度はご依頼いただきましてありがとうございます。
遊琳さんとノエルさんの約束の結果を描かせて頂けるご機会をいただきまして、とても光栄です。
魔法具製作者であるノエルさんと遊琳さんはどんな会話を交わすのでしょうか。
ノエルさんが遊琳さんのために拵えた場所に案内されるとき、遊琳さんは何を思うのでしょうか。誰を思うのでしょうか。その場所で、どんな風に眠ろうとするのでしょうか。
ノエルさんは何を思ってその場所を用意したのでしょうか。どんな素材でその場所を創り上げたのでしょうか。
そこは、どんな場所なのでしょうか。どんな風に遊琳さんを迎えるのでしょうか。
眠りの中に、ふわふわとした夢の中に、遊琳さんは何を思うのでしょうか。
どんな結末になっても、遊琳さんが幸せであればと願うばかりです。……幸せの定義はひとそれぞれだと思いますので、わたしに出来得る限り、遊琳さんの望みのままに。
おふたりのアクション、お待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。