泡沫の揺籠｜リアクション

泡沫の揺籠

　部屋の片隅で身じろぎもせず立ち尽くすばかりの遊琳へ声を掛けることもせず、ノエルはただその細い背を見守る。
(自分の主は自分自身)
　それは己の矜持であり、今目前に立つ遊琳にとってもそうであるのだろうとノエルは思う。少なくとも、そうありたいと願っているのだろうと。目覚めが果たされるかも定かではない『眠り』を選んだのも、己が己でありたいと願ったがゆえなのだろうと。だからこそ、
(私は貴方の在り方に敬意を払う)
　星の程ある選択から、この結果を選んだ遊琳へと、
(私は、貴方へ肯定を送る)
　部屋のそこここを確かめていた遊琳の視線がこちらを向く。確かな信頼を宿した蜜色の瞳に、ノエルは穏やかな笑みで応じた。
(……けれども)
　胸の内に呟いて、いいえ、と遊琳を真っすぐに見遣る。
(だからこそ、此処では穏やかに過ごして欲しい)
　そう思う。
　果て知れぬ眠りを得るために己の腕を見込んでくれた彼に応じたかった。
　この結論を得るまでの彼の煩悶を、苦悶を、僅かなり和らげてやりたかった。
　そうして彼の望みのまま、ただ静かに眠って欲しかった。己のあるがまま、己の望む有りようのまま。それがたとえ、深く深い眠りに身を委ねることであるとしても。
　遊琳の瞳を導き、ノエルは寝台へと視線を向ける。そこにあるのは、音と光を優しく遮る天蓋のレース。眠る前のホットミルクに妖精の吐息をひとさじ混ぜ込んだ甘い乳白色は、星に極めて近い山脈の天頂に踊る天空蛾の繭でなくては出せぬ色。
　風の如く滑らかで触れても分からぬほどに細い絹糸を使い、光知らぬ樹海の木の織機を操って織り上げたそのレースは、幾重に重ねてもどこまでも軽く、天蓋の内に眠る者を温かく優しく包みこむ。
　天蓋と寝台を支える枠は、白珊瑚で出来ている。
「穏やかな暖かい海で育った子です」
　寝台の背を指先で撫でる。魔法を籠めてもとのかたちから寝台へと変えてゆくその最中にも、白珊瑚は透き通って青い海の幻を見せてくれた。
　優しい海でゆったりと育った優しい白珊瑚の『子』は、ノエルの手によってその身を寝台と変えた今も育った海の美しさを湛えている。触れればふわりと暖かで、耳を寄せれば涼しい漣の音を気まぐれに聞かせてくれもする。
「きっと狭間の君の眠りを守ってくれるでしょう」
　佇む遊琳に声を掛けることも急かすこともせず、ノエルは己の手で作り上げた部屋のひとつひとつの物のかたちを確かめる。願いを掛けるようなまなざしを投げてゆく。
(明るく、静かで、)
　眠るのには困らない場所。そうあるべく、創った場所。
　ただ静かに眠りたいと願う、遊琳のためだけの場所。　
「有難う」
　部屋の製作者であるノエルから一通りの説明を聞きながら、遊琳に迷いはない。少なくとも、以前ノエルに【睡蓮】を作成してもらった時ほどには考えたりしない。
(此処を望んだのは僕)
　ノエルがこの部屋を創り出すために如何なる手段を取っていようと、如何なる工程を経ていようと、それがどうあれ、遊琳に何も言う気はなかった。
(この部屋は存在することが全て)
　最後まで手にしていた小振りの箒、ノエルが己のために造り出した【睡蓮】に視線を落とす。愛おしむように、労わるように、ここまで己を運んでくれた【睡蓮】を撫でる。
　【睡蓮】は、鍵だった。杖だった。箒だった。使い手の心に寄り添ってその存在の方向性を変えてくれた。けれど此処は、この部屋は、使い手がその在り方を都度決めるべきものではない。
　そう思うからこそ、遊琳はただひとことだけ口にする。
「確かに此処は僕の場所だね」
　此処は完璧だと。
　此処でなら己は己の望みのままに在れると。
　全ての想いをそのひとことに籠めた。その言葉ひとつでちゃんと通じると信じた。
　はたしてノエルは満足げに、静かに微笑んだ。

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