泡沫の揺籠｜リアクション

泡沫の揺籠

　白珊瑚と天空絹の寝台を前に、遊琳の足が止まる。
　それは眠りに沈むことを拒んでのことではない。恐れてのことでは決してない。それでは、彼の足を怯ませてしまうものは何であるのかとノエルは思案する。
　ただひとりで眠ることを選んで、ただひとりで此処に来た蜜色の瞳の青年。
　己の望む己でありたいと望むがために、ひとりで眠ることを選んだ青年。
　けれど、彼が今此処にひとりで立っていようとも。
「狭間の君が眠る事を望むと言うのであるならば、夢の内の夢に浸かるというのであるならば、」
　それを選んだ『狭間の君』は、決して孤独には見えなかった。
　魔法具を作り続けてきたがゆえに、己が持つ魔法のひとつが『そのモノが持っている強い思いをイシにする』というものであるがゆえに、ノエルには彼をかたちづくるものが彼自身だけではないように見えた。たとえそれが、彼を苦しめるものであったとしても。それが彼自身のかたちを歪めてしまいかねない因であったとしても。
　少なくとも、彼は孤独ではない。ノエルはそう信じた。
「その入り口は明るいものであれと皆思うのではないでしょうか」
　信じたからこそそう伝えた。
「皆、か」
　遊琳は瞳を伏せる。静かに静かに、微笑む。
「……ああ、僕の名前も僕も。とても大事にされていたよ」
　一歩。白い素足が寝台へと近づく。冷えた指先が天蓋に触れ、寝台に触れる。黒い睫毛の陰が白い頬に落ちる。
　此処に至って、眠りたいという彼の意思に揺らぎはない。
(でも、そうですね)
　けれど、その身を寝台に横たえるにはもう少し理由が必要であるのかもしれなかった。
「狭間の君は、決して独りではなかったでしょう？」
　離れたいと思うことも、逢いたいと願うことも。
　花の散るを望むことも、花の咲くを乞うことも。
　どんな願いも、ずっと独りであったならば生まれるものではないはず。
　花の色を宿すノエルの瞳を、けれど決して見つめることだけはせず、遊琳はたおやかな指で寝台を撫でる。
「『弥逢遊琳(ぼく)』は、」
　伏せた瞼の裏に浮かぶのは、今日の供には出来なかった友──否、最早そう呼んでいいかも分からぬ子達。
「確かに独りではなく、その事実に好んで浸ってきたと思う」
　あの子達は『弥逢遊琳』の選択をどう思うだろう。
　悲しませたいわけではない。だからこそ、もうこの選択肢しかなくなってしまった。こう在ることを『弥逢遊琳』は願った。
　蜜色の瞳を伏せる白皙の面を藤色の瞳に暫し映して後、ノエルは寝台の上から柔らかに白い夜着を手に取る。差し出す手のかたちにさえ沿って滑らかにかたちを揺らすそれは、穏やかな眠りを妨げぬ長襦袢。
「……ありがとう」
　受け取る手の温度にふわりと馴染む肌触りの良い布に思わず頬が緩んだ。
「天蓋のレースと同じ、天空蛾の繭から紡いだ絹に遥かな月の光を染み込ませた夜着です」
　寝台の影で眠るための最後の準備に取り掛かる遊琳に、ノエルは夜の星にも似た静かな声で囁く。
　遊琳は世界に暇を告げるかの如く、着替えた服を丁寧に畳む。寝台の裏の小さな箪笥に仕舞って長襦袢姿で寝台の端にそっと腰を下ろせば、清かな風が頬に触れた。もたげた瞳に映るのは、寄り添うように寝台の傍らに浮く、
「……【睡蓮】」
　知らず、手が動いた。伸ばした指先に、【睡蓮】の優しい柄が触れる。愛おしむように撫でて抱き寄せると、【睡蓮】は微笑むに似て小さく揺れ、頬を風で撫で返してくれた。
「まどろみの君は」
　寝台の傍らに立ち、ノエルは【睡蓮】を見遣る。
「傷つける事を厭う小鳥の羽と、今は誰にも知られていない花園の御伽噺と、その庭園の鍵で出来た箒」
　詩を口ずさむような魔法具製作者の言葉に遊琳は耳を傾ける。彼が創り出すものには全て、意思が宿る──【睡蓮】にも、この部屋や寝台にも。
「まどろみの君がこの場を守ると言うならば、何も心配は無いのでしょう」
　鳩羽色の長い髪を揺らし、光や感情によって濃淡を変える藤色の瞳を巡らせ、ノエルは己の作り出した部屋を眺める。ここを守ると意思を固めた、優しい魔法具を見つめる。
「古い妖精奇譚を守る事に慣れた子です。静かに、けれども暖かく狭間の君を守ってくれることでしょう」
　ノエルの静かなまなざしをなぞってから、遊琳は寝台を覆う掛け布に掌で触れる。座っただけでも、寝台の心地よさはよく分かった。真綿のように柔らかく温かく、眠気が体を包み込んでくる。
　身を委ねてしまいたい気持ちを、小さく胸を上下させることで抑える。
(もう少しだけ頭を回そうか)
　己の、──『弥逢遊琳』の望みについて。
　それはきっと、目覚めるかも分からぬ眠りに就く前の儀式のようなもの。

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泡沫の揺籠

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