雨の中のワルツ - a waltz in the rain｜リアクション

雨の中のワルツ - a waltz in the rain

　九鬼姫を椅子に縛り付けると、松木は自分の腰をとんとんと叩いた。
「お前思ったより重いな。腰いわすかと思ったわ」
　ジョークのつもりなのだろうが、九鬼姫は松木をにらみつけたままだ。
「おーおー怒った顔もええなあ。お前、高ぅ売れるで。嬉しいやろ？」
「……」
「あ、そうか。俺としたことが。これ邪魔やもんなあ？」
　おどけた口調で松木は九鬼姫の猿ぐつわを解く。
「じゃーん！　でや？　泣いても、ええんやで？」
　この『ええんやで』は、『え・え・ん・や・で』と区切って発音している。
　だが九鬼姫は泣くことも叫ぶこともしなかった。うなるように低い声を出しただけだ。
「……紗央莉はどこだ？」
「なんやしょーもなー、自分そんなん知りたいん？　あいつはな、ここ来る途中でもう一台の車に移したわ。納品先も別やしな。お前はロリ専門業者行きや」
「あんなも攫ったのか？」
「やめや。あいつ実家の母親と縁が切れてなかった。捜索願でも出されたらごめんやからな」
　せっかくやし教えたろ、と松木は言う。
「なんで俺がお前らキャバ嬢をターゲットにしとるかわかるか？　お前らはな、実家と縁切っとったり家出娘やったりして天涯孤独なやつばっかりやからや。あと、無責任な商売なんでパッと消えても誰も心配せん。ついでに言うと、芸能人志望の女も絶好のカモや。似たよーな境遇のやつ多いからなあ」
　松木は仰々しい仕草で眼鏡を取り出してかけ、眉間にしわを寄せた。
「日本が安全やと思てるやつ、アホやで。ホンマは毎年こうして、ぎょーさん人が消えとんねん。まあ、消えても誰も気にしてくれへんっつーのが一番の悲劇やけどな」
「……けが」
「あん？」
「うつけが、と言った。つまり、お前は馬鹿ってことじゃ！」
「なに言うてんの自分？」松木の表情からおどけたようなものが消失した。「まじイカレ女か？」
「わらわが天涯孤独であってたまるか！　いまごろ『プロムナード』の皆がわらわを探しておるわ！」
「なあ自分、俺のこと舐めとるん？　ちょっと力関係について勉強せなあかんな」
　松木が懐からバタフライナイフを取り出したのと、黒い風が男にぶつかってきたのは同じタイミングだった。

「まあ、消えても誰も気にしてくれへんっつーのが一番の悲劇やけどな」
　さゆるは見張りの男をやりすごして倉庫に這い入った。
　倉庫の奥ではリーゼントの中年男が、車から運び出した女性を椅子に縛り付け、何か言い聞かせているところが見えた。
　少しずつ近づきようやく漏れ聞いた言葉が、このフレーズだった。
「まあ、消えても誰も気にしてくれへんっつーのが一番の悲劇やけどな」
　誰も気にしてくれない――。
　誰も。
　倉庫の屋根を打つ雨音が激しくなる。
　さゆるの心のなかの蓋がひらいた。
　記憶が呼び覚まされる。十二歳のときの。
　この倉庫のような地下室。
　片篠由樹弥からの執拗な凌辱……。
　あのとき由樹弥が口にした言葉はまさに、『誰も気にしてくれない』ではなかったか。
　我知らずさゆるは悲鳴を上げ、男に向かって駆け出していた。
　許さない。
　許さない。
　許さない！
「なんや！？」
　突進してきたさゆるを避けきれず、松木はよろめきながらナイフを真横に払った。
　さゆるの額が切れ、ぱっと紅いものが散った。
「お前誰……」
　松木の口調が突然、やけに間延びしたものにかわる。スロー再生している動画のように。低く、重く。
　Stella cadente、さゆるの能力が発動したのだ。
　さゆるの手が松木からナイフをもぎ取った。
　無我夢中で突き立てる。
　ぎゃあという悲鳴すら鈍重だ。
　さゆるはナイフを、もう一度深く松木に突き立てた。　
　振り上げる。
　振り下ろす。
　何度も何度も。

　どこかからサイレンの音が聞こえる。