雨の中のワルツ - a waltz in the rain｜リアクション

雨の中のワルツ - a waltz in the rain

　蒸しタオルを顔に乗せていたような、重くて深い眠りだった。
　目覚めると部屋は暗い。ベッドサイドに手をやって、ライターを押しのけスタンドのスイッチを見つける。
　朝鳥さゆるは身を起こし、身にまとわりつく気怠さが、情事の後のそれだと気づいた。この感覚には慣れている。　
　でもじゅん――姫木じゅん（源氏名はまみ子）との交歓は、さゆるを通り抜けていった男たちとは違っている。みずからの欲望をぶつけることにだけ執心し、常にさゆるからなにかを奪おうとする彼らとくらべると、じゅんはもっとさゆるをいたわり、逆になにかを与えてくれるように思うのだ。さゆるにとって不吉の象徴たる『あの女』に至っては，隔たることさらに遠い。
　冷たい気温が素肌にふれる。
　少し肌寒い。
　そのはずだ。窓辺に立つと雨が降っていた。
　壁のポスターがさゆるを見ている。アニメのキャラクターだ。
　ミスティックなんとか――そう、『ミスティックエール』という魔女っ子作品の主人公だった。隣にはアリアという名の、彼女のメンター役のキャラクターも立っている。
　じゅんの趣味はアニメ鑑賞だ。両手の指では足りないほどの作品を毎週観ている。このところ鑑賞に付き合わされているおかげで、さゆるもだんだん覚えてきた。『ミスティックエール』はじゅんのお気に入り作品だった。あまり興味がないので半分以上流し見だが、よくできているとはさゆるも思う。
　首を巡らすが、やはりじゅんの姿はない。
　この前の土曜、シフト交換がどうこうと言っていたから、同僚の代わりに出勤したのだろう。
　さゆるはシャワールームに入った。
　このマンションの給湯器は外にあるため、水が湯になるまでは時間がかかる。星ヶ丘の部屋にいたときの気持ちで、いきなり冷水を浴びた回数は数限りない。
　さゆるは瞼をなかば閉じたまま、シャワーヘッドからあふれる水に湯気が立つのを待っていた。
　土曜――。
　じゅんとふたり、花見に行った日のことを思い出す。
　新築の家に泥靴で上がるようにして、『あの女』が自分達の前に姿を見せた。燃え上がるような怒りと情欲を目に宿して。
　まさかああなるとは思わなかった。
　じゅんはあの女を追い払うのではなく、むしろ挑戦に応じたのだった。三人でこの部屋で、狂気じみた情欲の夜をすごした。密林に迷い込んだような、むせ返るような匂いは朝まで絶えなかった。
『私からさゆるを奪うじゅんを殺す殺す殺す絶対殺す！！』
　翌朝、あの女が送ってきたメッセージだ。
　単なる脅しには思えなかった。
　頭からかぶる。
　まだぬるいが、それでも湯は湯だった。
　――自分はあの女の人質にされたようなものだ。
　じゅんと、あの女の本来の身体の所有者と、そして片篠藍人の思い出とともに。

　髪を乾かし、服を着てスプリングコートをまとった。
　冷蔵庫のフックから鍵を取ると、コートの襟を立てたままさゆるはドアを開けた。
　ひどい雨だ。風もある。しかも夜中だ。
　でもじっとしている気にはなれなかった。目は冴えきっていたし、部屋にひとりでいたら、不吉な想いに押しつぶされそうだから。
　一度だけ振り返った。暗がりから、ミスティックエールが手を振っているように見えた。