春の一日｜リアクション

春の一日

　鬱蒼とした木々に覆われた猫鳴館の扉が低い音を立てて開く。恵御納夏夜が顔を出して外の様子を窺う。
「誰もいないね」
　微かな笑みで夏夜は飛び出した。青空を薄めたようなワンピースは爽やかでスカートの裾が僅かに翻る。心なしか、顔まで晴れやかで下り坂を一気に駆け下りた。
　道に出ると左手に曲がる。適当な路地に入って軽い足取りで突き進む。
　足が止まった。薄暗い一角に目を向けてじっと見つめる。
　――ここにはきたことが、でも、はっきりとは思い出せない。分離した影響で記憶が曖昧になっているようだ……。
　軽く頭を振った。縦長の青空を見上げて気持ちを落ち着かせる。
「今日を楽しもう」
　頷いて足早に路地を抜けた。横手に見える九夜山に目が留まる。
　――知らなかった。自然がこんなに美しいなんて。
　軽く目を擦り、大股で歩いた。
　木々は枝葉を空に向かって伸ばし、降り注ぐ陽光を浴びた。輝く緑に夏夜は目を細めた。視線を下に向けると道端に咲く小さな花が、どこに行くの？　と小首を傾げて聞いてきた。夏夜は微笑みを返す。木の根で僅かに膨らんだところは軽やかに跳んだ。
　自然に囲まれた道は緩やかな小川の流れのように続いている。流れに乗って進んでいく。焦げ茶色の瞳が、一層、優しくなった。
　――僕は自分の身体で歩いている。これからは一人の人間として、色々なことに挑戦したい。
　寝子高で勉強を頑張るよ。空いた時間にはバイトもしてみたい。ボロボロの猫鳴館の修繕費に一部を充ててもいいかな。
　思考が途切れた。黄色いタンポポに寄り添うようにツクシが生えていた。
　――タンポポとツクシは食材にできるかな。今日は袋を用意して来なかったから場所だけでも記録しておこう。
　ワンピースのポケットからデジタルカメラを取り出した。タンポポとツクシを接写する。次に遠景で写した。
「あれは」
　レンズを一方に向ける。その姿で夏夜はしゃがんで左の掌を差し出す。各指をバラバラに動かして、こっちにゃー、と甘ったるい声を出した。
　茶トラ柄の子猫は道を横切る寸前で動きを止めた。夏夜の指の動きを見て近づいてきた。
「良い子にゃー」
　言いながらデジタルカメラのフラッシュ機能をオフにした。
　子猫は指に飛び付いた。前脚で叩くような真似をしてごろんと転がる。腹を見せた状態で手を掴み、人差し指を甘噛みした。指で構いながら写真を撮った。
「可愛いね」
　喉の辺りを指でくすぐる。伸びるような格好で目を細めた。その間に何枚も写真を撮った。
　子猫は急に起き上がって大きな欠伸をして、にゃ～、と鳴いて夏夜が来た方向に歩き出す。
「ありがとう。良い写真が撮れたよ。また会ったら僕の双子の妹を紹介するね」
　子猫は立ち止まって振り返ると、にゃ、と短く返した。急に走り出し、横手に飛び込んで見えなくなった。
　夏夜は立ち上がった。デジタルカメラの画面で写真の出来栄えを確かめる。
「この一枚は、うん、いいね。これにしよう」
　子猫の愛らしさが一枚にギュッと詰まっていた。
　――これなら妹も喜んでくれるはず。僕と同じ猫好きだからね。
　夏夜は自然に溢れた道をゆく。菜の花で一面が黄色いところでは、わー、と声が漏れた。横目で見ながら弾むように歩いて、ふと足を止めた。
　――春だけではなくて、夏や秋、冬も楽しく過ごしたい。でも、今は。
　来た道を急いで引き返す。速足は間もなく駆け足となった。
　桜花寮の一部が目に飛び込んできた。
「今は妹と一緒に！」
　夏夜は笑顔で門を走り抜けた。

このページにイラストを設定する