「ふーん」
　ぷかりぷかりと漂うのはイルカ。
　比喩じゃなくて本当にイルカです。ただし、ビニール浮き輪のイルカですが。
　これに身を預けて、ゆったり楽しんでいるのは誰でしょう？
　セパレートタイプの水着はピンク色。
　ぱっちりした大きな目。右目のしたには泣きぼくろ。
　長い栗色の髪が、波に揺られてゆらゆら揺れています。
　彼女は夢宮 瑠奈、ずっとイルカにつかまっていますけど、泳げないわけじゃないのです。

　実はこうして、海原会長を観察していたのです。
　本当に、噂通りの人物なのかなー――と。
　噂は半分正解で半分間違いといったところでしょうか。願わくば、会長が偶然こちらを見て、そこで、
「会長～一緒に泳ぎませんかー」
　って誘って、ちょっと会話も交わしてみたかった。
　でもあの様子じゃそれは難しそうです。彼は残念ながら、負傷（？）＆救急センター行きになってしまいましたので。
　だったら、ということで。
「ねえ、あなた」
　イルカを引き連れて泳いで、瑠奈は鬼河内萌に声をかけました。
「海原会長の、カノジョー？」
「ボクが！？　ちち、違うよー！　ボクはただのＭＭＲ隊員だから！」
「ＭＭＲ？　マジで（Ｍ）むかつく（Ｍ）レボリューション（Ｒ）ってこと？」
「どういうレボリューションなんだよ！？　違う違う、これは萌（Ｍ）ミステリー（Ｍ）レポート（Ｒ）の略で、要するにこのボク、鬼河内萌による個人的なミステリーハンターサークルなのさ！」
「ははあ」
　と、瑠奈はわかったようなわかってないような顔をしましたが、すぐに、
「鬼河内……ってことは、あなた、鬼河内くんの妹？　『カレーはうまいのぅー、カレーは美味いのぅー』……でおなじみのー」
「うん……そう」
　慣れてはいますが、やはり他人から、兄のカレー祭っぷりを聞かされるとなんとなく気恥ずかしい萌でした。
「やっぱり～。あたし夢宮瑠奈、よろしくねぇー」
　あ、そうだ……と瑠奈はイルカを引っ張ってきて言いました。
「乗ってみるー？　イルカの背中ー？」
「いいの！　乗る乗る！」
　萌は喜色満面でこれによじのぼりまし……が、
「あ、これ転覆しやすいから気をつけてねぇ～」
　という瑠奈のアドバイスが間に合うより先にイルカは腹を見せ、萌はぼちゃんと水に落ちていました。
「あはは、これは一本取られたね☆」
　でも萌は笑顔でした。
「今度は押さえててあげるー。もう一回やってみようよ～」
　瑠奈も笑顔でした。
　どうやら二人は、いい友達になれそうです。

「ええと……保健委員か？」
　海原茂が駈け込んだのは保健当番のコーナー、プールぎわの一角に念のため用意されていた場所です。
　同じくその場所に駈け込んだ生徒がいました。体操服の上下です。
「うわ～！！　間に合った！」
　ひゃー、と汗を拭った彼は、宇佐見 望月でした。さきほどまで当番だった雨崎荒太郎の交替要員です。

「おっとさっそくお客さん……て生徒会長！？　保健委員かって？　もちもち！　保健委員の当番入ってたの忘れてたわけじゃなくて、他に仕事があって遅れたけど結果オーライでイエス、目下保健コーナー営業中！　荒太郎ちゃんから引き継いだんだ。たった今！」
　見せて見せて、と茂に口元の手をどけさせ、望月は彼の具合を見ます。
「えーと、体調悪いのに入ってゲーしたわけじゃないよね？」
「ああ、ちょっとのぼせたらしい……」
　到着したばかりですが望月の手際は素晴らしく、てきぱきと救急セットからガーゼ類をとりだすと、丁寧に茂の鼻血を拭きます。
「のぼせただけ？　そりゃ残念……いや、よかったよかった。いやね会長ちゃん聞いてよ、俺様、全クラス分の救急セットとゲロリンセット……つまり嘔吐物処理用バケツまで作らされてさ、もう貧乏くじひきまくりといった次第で」
　と話しながら、望月は茂の鼻につめものを差し込みました。これもなかなか上手です。しかもその作業を意識させることなく彼は言うのです。
「そうだ、生徒会長ちゃん、予備のゲロリンせっと見る？　ほらこのバケツ！」
「紙袋とビニール、バケツの三重構造なんだな」
「そう、処理簡単、ってね。さーどうだ。これでいつでもゲロリンできるぜ～！」
「うん、だが遠慮しておこう」
　いつも表情に乏しい茂ですが、このときは苦笑気味に口元がほころんでいました。堅物の茂ですら笑わせる話術の才能が、望月にはあるようです。
「助かった」
　と茂が去った後、望月は見知った姿に目を止めました。
「お、久雨ちゃん♪　来てたんだ～」
　浮舟 久雨は背後から呼びかけられて、びくっと身を強張らせました。髪の毛がぴいんと逆立つようです。
　そして彼女は、驚いた猫がそうするように、そろそろと振り返ったのでした。
「ああ、うむ、望月先輩か……これは……その、今日は見学程度ですませるつもりだったのだが……」

　普段は男子制服を着用し、霜月の朝のように言動も凜然とした久雨です。それが女子の指定水着に身を包み、まるで自分の体を隠そうとするかように前屈み気味に小さくなっているのは、望月の目にはなんとも新鮮な光景に映りました。長い髪をしっかりまとめているのも珍しい。声もなんだか消え入りそうです。
「でも、やっぱ泳ぎたくなって着替えちゃったってわけだなー」
「う……皆の様子を見ていたら、なんとなく……」
　申し訳ないとでも言いたげな様子の久雨を元気づけるように、望月は快活に笑いました。
「いいじゃんいいじゃん！　泳げるときに泳いでおけって！　俺様なんか今日はずっと当番だぜ。さっきまでだって、れみちゃんセンセーと一緒に利用者名簿の確認とか、消毒薬や絆創膏などの備品確認とか……つっかれた！　それなのに、これからはプールサイドでも仕事だ～！」
「むう……それは気の毒に……」
「ま、しゃーねーしみんなが困るんで、役目はきっちり存分に果たすさ。多分さ、今日は人手が足りなかったんだろうな。いつもは薬品の管理とか整理とか、れみちゃんセンセーがやってるモン」
「忙しいじきなのだな……」
「うん、センセーって今日も業者に電話かけてて『絆創膏何箱』とか注文してた！
「きちんと伝票で残さないと、決算とかでダメ」なんだってさ　なんか学校の買い物って大変なんだな～」
　そういうわけだからさ、と彼は続けました。
「みんなの今日を支えるべく頑張ってる人がいる、だからみんなは、その分もしっかり遊んでくれよな！　……って俺様、けっこう良いこと言ったんじゃない！？　な？」
「うむ、ありがとう。なんだか励まされた気がする……大変なのは先輩のほうなのにな……では行ってくる」
　久雨は手を振り姿を消します。
　元の位置に座りかけた望月ですが、すぐに腰を浮かせました。誰か見つけたようです。
「武道ちゃーん！　俺様だー！　俺様もプールに入れてくれー！」
　友人の志波武道でした。しとどに濡れた状態で彼はやってきました。
「ＨＡＨＡＨＡ！　なんだ望月くん、保健委員？　泳がないのか？」
「いや泳ぐよ！　ここで脱いで入るから！」
　熱血友達の武道といると、ついつい気持ちが高ぶってしまいます。望月は立ち上がるや、ばっとズボンに手をかけました。
　いやいやいやまずいだろここで脱ぐのは！　……とツッコむのは普通の人。
　ですが武道は望月同様（？）脱ぐの大好き少年（？？）でもありました。
「おーその意気その意気！　脱げ脱げすっぽんぽん！」
「いやさすがに下に水着着てってば！　リアル変態じゃないから……って、あっ！」
　急ぎすぎたのがまずかったのでしょうか。彼は脱ぎかけのズボンに足を取られ、バランスを崩して彼は、おっと、とっ、とっ、と片足立ちで多少健闘したものの、虚しくプールに頭から落ちました。
「うわ、ナニコレ！俺様体操着のまんま落ちた？！　うそー、冗談こい……俺様、マヂで貧乏くじ引きまくりじゃね？」
　プールサイドでは、武道が腹を抱えて笑っています。
「くっそ、腹立った！　このまま泳いでやる～っ！！」
　転んでもただではおきない望月です。ついにそのまま遊泳を開始したのでした。
　ほどほどにして戻ったら、水着姿で保健委員の仕事を再開するとしましょう。