さて頑張ろう、と楡宮 遠海は首にかけたタオルをぐっと握った。元々規格外の方向音痴だという自覚を持っている遠海だ、迷っても大丈夫なよう朝早く鎌倉の自宅を出て寝子島へ向かったにもかかわらず、梅園に来るのにやっぱり手こずってしまったけれども。
　何とか集合時間までに間に合って良かったと、遠海は改めて安堵の息を吐く。摘むべき花の目安、花を摘む際に注意すべき点などもしっかりと聞いたから、あとは頑張って手を動かして、渡されたザルに花を集めていくだけだ。
　ゆえに久幸に「この辺りにある、幹に目印のひもが巻いてある木からだけ摘んで下さい」と言われた通り、目印を確かめては摘み頃の花を探していく。募集の注意書きにあった通り、動きやすく、汚れて大丈夫そうな服装で来ているから、地面に膝を突いたりするのも問題ない。
　防寒も兼ねた軍手も使って、せっせと花を探す遠海と同じように、小山内 海も摘み取る花を探して歩いていた。とは言っても、弥生もいるからあまり高い所は難しい。
　といってあまり低過ぎても大変だから、弥生が普通に手の届く範囲に花が咲いている木が良いだろう。だから海は弥生には少し待っていてもらって、そんな木がないか探しているのだった。
　少し歩いたところで、この辺とかどうかな、と海は足を止めて辺りを見回す。弥生の手の届きやすい高さにまで花の枝が下りてきているし、足元も見える範囲ではそこまで悪くなさそうだ。
　うん、と頷いて海は弥生の所まで戻り、彼女の手を引いて目星をつけた梅の木まで誘導した。どうかな、と弥生の手を梅の花に触れさせると、にこ、と微笑みが返る。
　久幸と十海がさり気なくこちらに視線を向けて、弥生の様子を確認して頷く。何かあればすぐにフォローに入れるようにだろう――もちろん海も可能な限りはフォローするつもりだ。
　任せて下さいと、何かあったらお願いします、の気持ちでぺこんと頭を下げた。そうしてアプリで弥生に声をかけながら、丁寧に花を摘み始める。

（それにしても綺麗だな……）

　花の香りだろう、梅の木の下に居るといい香りがあちこちから漂ってきて、海の鼻腔をくすぐった。1つずつ花を触って、頃合いを確かめながら摘んでいる弥生が、嬉しそうに花の香を大きく胸に吸い込む。
　実の所、島出身なのに海はここに梅園があったなんて知らなかったのだけれど、こうして知れて、来ることが出来てよかったと思う。こんなにも綺麗な景色をまた1つ、知ることが出来たのだから。
　そんな言葉を交わしながらゆっくりと花を摘む、少女達から少し離れた木の傍で、弥逢 遊琳は風流とも言える光景に目を細めた。幸いにして日の出てきた今は朝ほども寒くはなく、観梅には絶好の日和だ。
　知らず口に上るのは、知る者も多い江戸端唄。

「梅は咲いたか、桜はまだかいな、ってね」

　そんな風に口ずさみながら、遊琳は鴻上 彰尋を振り返った。先に上がるから、と断って脚立に手をかけると、頷いた彰尋がすっと脚立を支える。
　作業を始めるにあたって、遊琳は彰尋に『1つの脚立に交互に上って作業をしよう』と提案した。何しろ梅園の地面は均されているわけではないから、脚立を置いても少しはぐらついてしまう。
　だから交互に上れば片方が上がっている間はもう片方が脚立を押さえておけるので、安全だし、結果的に効率も良いだろう。そう言った遊琳の言葉は確かにもっともで、だから彰尋は『弥逢先輩は流石だな』と頷いたのだった。
　流石と言えば、先程は彰尋のリストバンドを見て、汗拭き用のスポーツタオルを鴻上の分も持って来ているから、と言っていた。この遊琳の気遣いは、本当に見習いたいところだ。
　ふ、と辺りを見回せば、あちらこちらで花を摘んでいる手伝いの人々の姿が目に入る。その中に居る、弥生の姿を目に映して彰尋は、自分でも明確には判別のつかない感情に眼差しを揺らした。
　彼女に、彼女を想う気持ちが伝われば良いのだけど、と願う。久幸の、十海の、そしてこうしてやって来た自分達の――
　そんな彰尋の内心を知ってか知らずか、脚立の上から遊琳が柔らかな笑みを含んだ声をかけた。

「次の木に行く時は一緒だよ。そうでないと万一落ちた時の対応に遅れるからね」
「解ってますよ、先輩。落ちたらちゃんと受け止めます」
「頼もしいね。期待しているよ」

　大真面目に返した彰尋の言葉に、僕には鴻上を受け止められないけれどね、と小さく笑って遊琳はまた、久幸に依頼された通り7～8分咲きの花を狙って、黙々と作業する。課題制作中もそうなのだが、こういう時に遊琳はあまり喋る方ではなかった。
　ゆえに黙々と花を摘む遊琳が一区切りついたところで、今度は彰尋が脚立に上ると、先ほどまでの遊琳と同じように7分咲きの梅を丁寧に摘み取っていく。花が崩れてしまわないように、丁寧に、優しく。
　咲き誇る梅花の下で作業をしていれば、自然とその香にも満たされる。それがなんだか懐かしいと、井野 つばめは目を細めた。
　こうして手を動かしていると、覚えていなかったはずのいろんな思い出がつばめの中に蘇ってくる。そう言えば、久幸さんにも弥生ちゃんにも小さい頃は、遊んでもらったのだったっけ。
　いつの頃からか梅園には来なくなって、そんな思い出も忘れてしまっていたけれど――

（弥生ちゃん、喜んでくれるかな）

　自身の摘んだ梅の花を見ながら、思う。当初はお小遣いの為だと自分自身に言い聞かせながら渋々やって来ていたつばめだけれど、梅園の奥の方、花を摘んでも良いという辺りまでの道すがらで今日の手伝いの理由や、久幸さん想いを聞いた今となっては、役に立ちたい、という気持ちで一杯だった。
　持ってくるときは嫌だった父のお下がりのジャージも、そうと知った今では全然気にならない。見た目より、何ができるかの方が大事なのだと、心から思うようになっていた。
　だから、たくさん咲いてるきれいな花に時折目を奪われながらも、つばめはせっせと手を動かす。そんなつばめときっと似たような気持ちで、遠海も懸命に手を動かしていた。
　作業そのものは花を摘むという単純作業だが、ずっと上を向いて作業していると、結構肩や首に負担がかかる。何とか体勢を変えたりしてやり過ごしても、時間が経つにつれて、その負担が結構バカにならなくなってきた。
　肩はもちろん、腰も腕も痛くなりながら懸命に花摘みをして、どうにか午前中が終わった時には心からの安堵の息が零れたものだ。それから、集めた花を久幸の案内で、島山家の隣に立つ作業小屋へと運び込む。
　そうしてずらりと並べたカゴに入った花は、改めて見ると結構な量だった。しかも久幸と十海、そして遠海達お手伝いメンバーの総勢10人で摘んだから――弥生は海とセットで1人のカウントだ――なおさらだ。

「これ、全部使うのかな……」

　思わず半信半疑で遠海が呟くと、それを聞いていた十海が「そうなんです」と頷いた。初めてだからちょっとだけ試したい、と思っても、この量での作り方しか本には載っていなかったのだ。
　料理レシピでも『半量でも○○はそのままで』などの指示がある場合もある。まして見た事も食べた事もない梅花漬、いきなりレシピ外の作り方をするのは危険だと判断した――久幸が。

「私は半分くらいでも、良い感じにアレンジしたら良い感じになると思うんですが」

　小首を傾げながら真面目な顔でそう言った十海に、聞いていた何人かが『久幸さんグッジョブ！』と胸の中で拍手を送った。多分、十海は料理出来ない人だ。多分。
　その気配を感じたのか、当時のやり取りを思い出したのか、久幸が何とも言えない表情になりながら、昼食は母屋に用意していると告げた。こっちです、と案内に歩き出した久幸の後について、移動する人々の列に海と弥生も加わる。
　食べてる最中にタブレットを触るのは行儀が悪いから、食べ終わってから弥生と話そう、と思った。花を摘んでいる間にもなにくれと話したけれど、海にはまだ彼女に話したいこと、聞きたいことがたくさんあるのだった。