心層深淵劇場｜リアクション

心層深淵劇場

　こくり、船を漕ぐ。修士論文の提出期限まで一月を切っていた。睡眠時間を削りながらの忙しい追い込みにマリエッタ・ラシュリエの精神はついに屈服し、伏した机の内へずぶずぶと沈み込んでいった。

（ここは？）
　全てを形作るのは硝子と水晶。近代建築史に明るい者なら１８５１年、ロンドンはハイド・パークにて催された万国博覧会へ出現した水晶宮を想起するだろう。
　もっとも眼前に出現したその前衛的構築物の威容はマリエッタの記憶とずいぶん異なり、水晶宮に鋭角的な尖塔、ギリシャ彫刻のような柱に竜や天馬を模ったレリーフを与え、過剰なまでに幻想世界の産物を思わせた。
　言わずもがな水晶宮は１９３６年の大火によって炎へ没し、その数奇な運命を閉じている。
　ならば目の前の輝きは、熱や温もりを拒絶するかのような怜悧なきらめきには一体、いかなる意図が込められているのだろう。外界の光を受け入れる寛容を持ちながら、己の内をさらけだす度量を備えながら、ひとたび侵入を試みる者あらば冷たく追い返す。硝子も水晶も透きとおっていながら、幾重ともなればやがて光を拒むようになるのだ。
（どうして？）
　マリエッタの理解はおよばない。自己の精粋、自身にとっての偶像たることになど気づかない。
　ただ冷たさに触れ彷徨うのみ。己を余さず知ることなどできはしないのだから。
　歩けば靴音が鳴り、壁を成す硝子にはマリエッタが多重に映り込む。鏡像は彼女自身でありながらどこか空々しく、まるで他人のような虚ろを感じずにいられない。
　幾重にも広がり、マリエッタを模す鏡像たち。
（気持ち悪い）
　自然、足早となった。

　靴音が鳴る。幾重にも。
（誰……？　ここには私だけじゃ……）
　心に陰が落ちる。不安がマリエッタの歩を早めると、周囲を蠢く者らの足音も早まった。
　美しくも無味乾燥な硝子の迷宮を、マリエッタは当てどなく進む。足音はつかず離れずまとわりつきマリエッタを惑わした。
　曲がり角に異変を覚え、そっと覗き見る。角の向こうに何者の姿も認められず、ほうっと息を吐いた瞬間、硝子の壁の鏡像がこちらを見て微笑んだ。悲鳴が迷宮を震わせる。
（いや……！）
　思わず駆け出すと、あたりを反響する足音も釣られるように大きく早くなる。鏡像を見るのはもはや憚られた。どんな表情であれ見ることに耐えられそうにない。
　孤独は水晶の冷たさを増幅し、恐怖は硝子の硬質を際立たせる。自分しかいない、透明で重たく刺々しい宮廷は物言わずマリエッタを苛んだ。
　駆ける。息が切れても足を止めない。水晶の鏡合わせは無限のマリエッタを生み、無限の視線と無限の嘲笑が彼女の背中を突き刺す。堪えがたい羞恥がさらにマリエッタを追い立てる。
　自分しかいない迷宮。何を恥じるのか。何を恐れるのか。何を求めるのか。マリエッタには分からないままに。
　気が付くと叫んでいた。止められなかった。何を叫んでいるのかは自分でも分からない。とにかく吐き出さずにはいられなかった。
　なぜ駆けているのだろう。なぜ叫喚しているのだろう。なぜ。なぜ。
「……ナオ……！！」
　自然と口を滑り出た名が胸を打ち、マリエッタは我を取り戻した。
「ナオ、ナオ！」
　この時に至りマリエッタは確信を得た。自分のことさえ覚束ないが、確かなこともまた胸の内には刻まれていた。
　孤独も時に悪者とは呼べまい。一人歩きを恐れるからこそ他者を求め、必死に愛を手繰り寄せるのだから。
　かくて迷宮はマリエッタの求める心を映し出す。鏡像の全てはつまるところそれであったが、マリエッタが思い至ることは無かった。
　彼女はただ名を呼ばれ、振り返った。
「ナオ……！」
　ボストンの著名な工科大学へ留学中の彼がこの場に在るはずもなく、それでもマリエッタの孤独をいくらか埋めるには十分だった。迷宮の冷たさと違い、抱きすくめられた彼の胸には温もりが満ちていたから。
　彼を見上げればあの瞳がマリエッタを真っすぐに見据え、彼自らが彼女の欠損を埋めるよう唇へ唇を重ねた。夢であれ現実であれ、それこそが自分の求む像であったのだろう。彼女の胸が満たされゆくさなかに、迷宮を成す硝子も水晶も粒子に解けて霧消していった。

　ノートにすっかり染み入った唾液はあとで始末をつけることに決め、マリエッタは電話を手に取った。
　ボストンとの時差は１３時間。今頃は研究に打ち込んでいる時分かもしれずいささか気が引けたが、指を止められなかった。大丈夫、きっと笑って許してくれるだろう。
　やがて聞こえてきた声に、マリエッタは口を開き、一番伝えたかった言葉を伝えた。

　電話の向こうで呆けたように首を傾げる彼を想像し、思わず吹き出した。

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