心層深淵劇場｜リアクション

心層深淵劇場

　外観に覚えはある。しかし内部構造は恵御納夏朝の記憶とおよそ合致しない。
　あの家がこんなに広大なはずもないのだ。
「家の迷宮……」
　つぶやきは無人の家に溶けて壁に染みた。
　イタリア語で家のことをカーサというらしい。
「まあ、僕はイタリアとは何の関係もないけど」
　心にまだ軽口を叩く余裕があるのは、迷宮があくまで慣れ親しんだ家の延長であるからだ。終わりなく伸びる廊下は異様なれど見覚えのある色に安堵できたし、その途中にいくつもある扉を開けば見覚えのある部屋が目の前に開けた。
　同じ部屋がいくつもあるのは疑問ではあり夏朝は首を傾けたが、すぐに察した。
「そっか……一つ一つが、僕の思い出なんだ」
　左手を見るとハルくんがこちらを見上げてこくこくとうなずいた。

　思い出の数だけ部屋がある。そして部屋と部屋には関連性、つまるところ記憶の連続性が度々見られ、複雑に繋がる廊下と階段、あるいは梯子は記憶同士の接続を意味している。
　何度も似たような光景を行き来したり階段を上り下りさせられるのはいささか閉口しなくもない。ただ同じ部屋とはいっても諸所に異なるところが見られた。思い出深い物品の有無や移動の痕跡は記憶の移り変わりを示しているのだろう。
「あ、これ。なつかしいなあ……」
　記憶からこぼれ落ちかけていた玩具を手に取ると途端、色褪せていた思い出が彩りを取り戻してゆく。
「これは、夏夜ちゃんとの思い出……」
　大切な姉妹と等しき彼女との比較的新しい記憶もまた、迷宮を巡るうちにしばしば見かけることができた。
　全ての記憶は繋がっている。複雑に多層を成して交雑し合い、その全容はまさしく一見の家を形作るほどだ。
「もっと……見てみたいな」
　十七年分の蓄積は膨大であり、いくら進んでも廊下が途切れる気配はない。夏朝はより深淵へと歩を進めてゆく。

　薄暗い。その部屋が他の記憶と趣きを違えているのは明白だ。
　絞られた光量は忘れがたい、しかしながら封印を考慮されるべき記憶を示唆するように思われた。
　部屋が他と異なる要因の一つは、そこが夏朝の馴染んだ家ではないことだ。部屋は猫鳴館の一室を模していた。家の記憶とも繋がりがあるためここに存在しているのだろうが、階段も梯子もその接続はめちゃくちゃで、あえてたどり着き難いよう配されているようだ。
　デスクに近づき手に取った。
「……去年の……夏休みの」
　友人と一緒に描き上げた、一編の物語。拙いながらも思い出深い漫画だった。
　こみ上げる感情はこの迷宮のごとくに複雑だ。寂寥。愛憎。平穏。嫌悪。それほどに思いを込めて描いた物語だった。
　だが、
「もう、僕は……」
　薄れゆく。
　主役のモデルとなった彼女はもういない。夏朝自らの手で決着を付けたのだから。
　しかしこの漫画にまつわる思い出はそればかりではないし、友人との共同作業は今でも心躍る記憶に他ならない。
「これは別の部屋に移そう」
　夏朝は漫画をひとまとめに小脇に抱え、部屋を出た。
　部屋巡りにも終着が見えていたが、あと一つ覗くべき場所がある。
　廊下の突き当り。ここが行き止まり、記憶の最も奥底。深淵だ。概ね流動的な新しい記憶たちと異なり、アクセスしにくい部屋は既に動的熱量を失い冷めた記憶が埋没する場所なのだろう。
　その証に漫画を見つけた時に胸へ感じた弾みを、夏朝はこの部屋に見い出せなかった。
　暗い。明かり一つなく窓もない。捨てるに捨てられないが始末に困る類の雑多なあれこれを押し込めておく物置。そのような部屋だ。
「ああ。そうか。ここはクローネの」
　役割を終えた記憶たちを一瞥し、夏朝は平坦につぶやく。あれほどに憎んだ混沌の神への感情はもはや希薄だ。試しに壁のスイッチを上げ下げしてみたが、天井から下がる裸電球が灯ることはなかった。
　恐らく二度と部屋を照らすことはないだろう。
「ま、別にいいかな……四十九院先生の記憶は別にあるし。この部屋にはもう用はないや」
　四十九院鸞を表す部屋は迷宮の表層にいくつか見られた。記憶はもはや移り変わり置換されつつある。気まぐれだが時に面倒見の良い黒ずくめの先生とかの神との区別は明確なまでに完了していた。
　部屋を出て振り返りもせず後ろ手に扉を閉めた。

　前を向かねばならない。たどるのではなく切り拓かねばならない。
　これからも部屋はいくつも生まれてゆくだろう。全てを振り返るには若すぎる。
　太陽と月の巡りを止めるなど……途方もない艱苦をあえて乗り越えようと思うなら。
　前を向かねばならないのだ。

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心層深淵劇場

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