色付いた街路樹が僅かな風で葉を散らし、道路を温かい色で包み込む。
　深倉 理紗子は喫茶店の窓から移り行く景色を眺めていた。ティーカップの紅茶は残り少ない。
　正面にいた深林 真瞭は上体を傾ける。
「パスポート、まだ期限ある？」
「どうして？　三年くらいはあると思うけど」
「十分ね」
　真瞭は残りのコーヒーを飲み干した。
「年末、二人でハワイへ逃亡するからよろしくね」
「え、ハワイ？」
「そう、ハワイ」
　真瞭は強い眼差しで理紗子を見て、にっと笑う。

　年末、二人は日本を飛び立った。オアフ島に着くと真瞭が専用の電話を使ってタクシーを呼び出す。
　程なくしてタクシーが到着。真瞭は流暢な英語で行き先を伝えた。運転手はにこやかに笑うと二人の荷物をトランクに収めた。
　後部座席に二人が乗るとタクシーは走り出す。
　理紗子は頭を傾けて小声で言った。
「ホノルルビーチかと思った」
「メジャーだけど、あそこは人が多くてのんびりできないわ。りさちんには、もっと素晴らしい海を見せてあげる」
　自信に満ちた顔でいうと、窓から見える景色を楽しんだ。

　タクシーはラニカイビーチの近くで停まった。真瞭はメーター料金の他にチップを渡す。
「ここが天国の入口よ」
　荷物を受け取った真瞭は白い壁沿いをすたすたと歩く。理紗子は不安げな様子で付いていった。
　先頭をいく真瞭が足を止めて振り返る。
「ここが友人の別荘よ」
「話で聞いていたよりも大きいね」
　平屋ではあるが壁の長さが規模を物語る。
　真瞭が門扉を開けた。建物のドアの施錠を解いて理紗子を待ち受ける。
「お嬢様の為にご用意しました。一週間と短い期間ではありますが、ラニカイビーチをお楽しみください」
「その呼び方は少しくすぐったいよ」
「りさちん、私達はまだ二十代なのよ。もっと希望を持って」
「ギリギリだけどね」
　恥ずかしそうにいう理紗子に真瞭はさっぱりした顔で、まあね、と軽く返した。
「ここはかなり譲歩して童心に返るってことで」
「うん、それなら」
　二人は笑って建物の中に入っていった。
　中は広々としていた。天井が高く、解放感に溢れている。数は少ないが調度品も置かれ、生活に必要な物は全て揃えられていた。
　ゆったりとしたソファに理紗子が座る。大きな窓の向こうにはプールが見えた。シャワールームが併設されていた。人工物だけではなく、ハワイ特有の木々がバランスよく植えられ、色濃い影を落としている。
　理紗子は深く座った。
「初めてきたところなのに、とても落ち着くわ」
　真瞭が隣に座る。
「医者は激務だからね。医者の不養生って諺もあるくらいだし。だからと言ってそれでいい訳がない。たまには自分にご褒美をあげないとね」
「ありがとう。これから一週間、よろしくね。まーちゃんも大変なのに」
「私は平気よ。楽団やコンマスを自分から辞めたことに後悔はないし、一人のヴァイオリニストとして世界を渡り歩くつもりよ」
　真瞭は胸を張って答えた。
　理紗子は微笑んで、きっとできるよ、と力を込めて言った。

　二人は別荘を拠点にして出歩いた。緑が多く、山にも挑戦した。腹が減ればレストランを巡り、星空の下でグラスを合わせた。
　瞬く間に二日が過ぎて三日目の朝を迎えた。
　ベッドで寝ていた理紗子が目を覚ます。美しいヴァイオリンの音色が聞こえる。
　窓から入る朝陽を一身に浴びた真瞭が真剣な表情で弾いていた。弓の動きが止まり、理紗子に笑みを向ける。
「起こしたみたいね、ごめん」
「素晴らしい目覚めをありがとう。それと明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします、でいいのよね？」
「時差は十九時間だから合っているわ」
　真瞭も新年の挨拶をした。
　二人はテラスで軽い朝食を済ませる。
　見る間に真瞭が活気付く。理紗子の両肩を掴んだ。
「りさちん、水着の用意はいい？」
「ちゃんと持ってきたよ。着替えは、ここでする？」
「もちろん。ビーチには施設が何もないからね」
　二人は用意した水着に手早く着替える。日焼け止めを塗る時は互いの手を借りた。
　共にビーチサンダルを履いた。速足でプールの脇を通って更に奥へ向かう。
　白い壁に突き当たる。木製の扉の前で二人は足を止めた。
　真瞭は輝く目で理紗子を見詰める。
「りさちん、今まで我慢してくれてありがとう。この扉を開けたらビーチの全容がわかるわ」
「ドキドキしてきた」
　急激に高まる気持ちを抑えるように理紗子は深呼吸をした。
「用意は良いみたいね。開けるよ」
　その声に理紗子はしっかりと頷いた。
　白い砂浜が視界に飛び込む。先に水色と青を重ねた海が広がり、空と混じり合っていた。

　誰かに手を引かれるように理紗子は歩き出す。すっかり魅了された目はいつまでも海を眺めていた。並んで歩く真瞭が、泳ごう、と弾む声で言った。
　目が覚めたように二人は走り出した。ビーチサンダルは合間に脱げた。置き去りにした状態で海に突っ込む。飛沫を上げて腰まで浸かると、隙あり、の声で真瞭が理紗子に海水を浴びせた。
「いきなり、なによー！」
　濡れた前髪を掻き上げて理紗子が反撃を開始。両手を回すようにして海水を掛けた。
「りさちん、多い、多いわ！」
　言いながら真瞭は海に向かって走り、頭から飛び込んだ。
　完全に姿が見えなくなった。
「まーちゃん？」
　浮かんで来ない不安から理紗子は足を速めた。
「あ、ちょ」
　理紗子は海中に引っ張り込まれた。
　海の中で真瞭が笑っている。指を一方に向けた。
　少し怒った顔で理紗子は示された方を見る。一瞬で表情が明るくなった。
　光の柱が織り成す中、色取り取りの魚が泳いでいた。流れるように、飛ぶように、思い思いの方向を目指して自由に、そして力強く進んでいく。
　二人は息継ぎをして何度も潜った。海中で手を繋いで足を動かす。海中散歩に笑顔が零れた。
　興味を持った魚が二人を取り囲む。一緒に自由を満喫した。

　白い砂浜に理紗子と真瞭は並んで座る。
「……久しぶりに身体を動かした気がする。思い切りはしゃいで、子供みたいな自分に少し驚いたよ」
「お嬢様、お気に召しましたか？」
　真瞭は神妙な顔で言った。
　理紗子は少し笑って真面目に答える。
「じいや、大変に満足しました」
「待って、そこはばあやでしょ」
「それも違うと思うけど」
　理紗子は笑いを堪えたような顔となった。海に浮かぶように並ぶ島に目を向けた。
「あの二つの島は？」
「モクルア島とフラットアイランドの名で知られているわ。あの二島を背景にしてラニカイビーチの写真を撮るのがコツらしいよ」
「まーちゃん、あの二つの島を入れてわたし達の写真を撮ろうよ」
「ビーチに負けないくらい、綺麗に撮れるかもね」
「きっと撮れるよ。だってわたし達は麗しの二十代だから！」
　理紗子の笑顔に真瞭は釣られた。肩を組んで、そうだね、と明るく返した。

　残りの滞在期間、二人は大いに楽しんだ。中学生で出会った、あの時に戻って素の自分を出し切った。