【猫が住む島】

　天上にまで突き抜けるかと思われた鮮烈に青い爆発が、島の全てを変えた。
　無論、ＭＴＴＢに侵された住人たちの目には爆発も、閃光も、立ち昇る青い煙さえも映らない。
　黒服たちはＭＴＴＢを本土で精製し輸送しているが、全ての住人たちを満たすほどには供給が追いついていない。いずれ目を覚ます『野良猫』の数は、さらに増してゆくだろう。
「そして、僕もまた……路傍へと放りだされるだろうか。あるいは粛清か……」
　浅葱 あやめは自嘲し、己の最期の働きを顧みる。
　目の前のモニタには、二つの映像。一つにはなく、もう一つには在らざるものが映り込んでいる。
　解放戦線には内通者が紛れ込んでいたが、それでいて彼らが最終的に作戦を遂行することができたのには、実のところ浅葱の手腕が深く関わっていた。
　実験体の眼鏡や、黒服たちのサングラスに映り込む映像。監視カメラの記録。テレビから流れるサブリミナル画像。浅葱はその全てを改竄したのだ。ことに黒服らの視界は全て、浅葱によって掌握されていた。
「『見て』……ください」
　何故か。浅葱の行動の理由とはどこにあったのか。
「どうか、見て……ください……本当の世界を。自由な世界を」
　黒服として勤めることになる前から、彼は『眼鏡屋』であったのだ。もはや見てみぬ振りはできなかった。
「……あなたが……見たいものを、見られますよう……」
　戸外から多くの足音が響く。慌ただしくこちらへ向かってくるようだ。しかし浅葱は、薄く笑う。とうに覚悟はできていた。
　満足だった。これからはもっと、世界が美しく見えるだろうから。



「あれれ？　なにかあったのかな？」
　今日はなんだか、朝から島中が騒がしいみたい。どこかで大きな爆発があったみたいで、地響きも感じた。
　それに……あのばたばたと走り回ってる、黒い服の人たちはなんだろう？
「ちょっとだけ、気になるけど。でも、今日も私はご機嫌パティさん！　マルクがいれば、なにも怖いことなんてないもの。ね、マルク？」
『ああ。任せておけ。お前は何も心配することはないさ』
「ありがとう、マルク♪　やっぱりマルクは、最高の相棒……だ……ね？」
　ボイスチェンジャーを手にした黒服は思わずびくりとして、身を震わせた。
　パトリシア・プロウライトと真っすぐに、目が合ったからだ。
「だ……誰？」



「……うん……今日も、美味しいな」
　落合 まゆらの混乱は想像に難くない。
　あると思っていたものが本当は存在しないのだと認めることほど、難しいものはない。
「あはは。あたしのろっこんって……やっぱり、最高よね」
　甘味へ砂糖を振りかける黒服の姿に、落合は見てみぬ振りを決め込むことにしたようだ。身の危険を感じたのか。気づいていると知れれば、この奇怪な黒服の男が自分へどんな仕打ちをしでかすか、分かったものではないと思ったのかもしれない。
「さあ、今日もバイトだ。頑張らなくっちゃ」
　声は少々震えたが、彼女が演技を続ける以上、黒服もまた後には引けなかった。
　虚ろな演技の応酬は、野良猫たちの咆哮が島中へ轟くまで続いた。



　青い煙は美しかった。憎々しいほどに。
「なんてこと……してくれたのよ……」
　呆けたように、虚栄 心はつぶやく。
「こんな現実、見たくなかった。いつまでも夢の中に浸っていたかったのに……」
　都合の良い夢は醒め、いまや虚栄を取り巻くのは世知辛い真実だけだ。
　他者より劣る自分。何のとりえもない自分。ろっこんなどない、単なる普通のひとである自分。
「許さない……私の楽園を奪った……あいつら……」
　虚栄は騒乱の中に消えていった。その背にはかつての虚栄が持ち得なかった、燃え盛るような怒りが滲んでいた。



　次々に記録されるデータを眺め、神野 美野梨は満足げにうなずく。
「これなら、すぐに中和剤が作れそうね。住人たちも依存症から解放されるはず。あなたのおかげよ」
「そうなの？」
　首を傾ける神薙 焔の頭を撫ぜる。あの白い部屋に孤独な暮らしを封じられていたからか、少女の精神は身体の成熟に反していささかに幼い。それでも聡く神野を見返す瞳には、理知的な光が宿っていた。
　彼女の持つ抗体、そして彼女自身の意思があれば、遠からず島の住人を残らず救うこともできるかもしれない。
　剣崎 エレナもまた彼女の頬を優しくなぞり、尋ねた。
「まだまだ仕事は多いわ。協力してくれる？」
「ええ、任せて。それがきっと、あたしの役割だから。あたしのために命を落とした、あの人のためにも……」


　少女は、無骨な巨漢の華やかな笑顔を脳裏に思い描く。きっと彼は、叫ぶだろう。
　さあ。猫たちよ。
　自らの首輪を外す時だ。



「……う……」
「あ。目、覚めた？」
　椎井 莉鳥が目を開けると、そこには青年が浮かべた優しげな微笑があった。　
「あなたは……」
「志波 武道。『野良猫解放戦線』の同志だった」
　身を起こそうとするも、痛みに耐えかねよろめき、彼に肩を支えられた。爆発は彼女をばらばらに吹き飛ばしこそしなかったものの、身体に残るダメージは甚大だ。
　それでも問わないわけにはいかない。
「……なぜ」
「知りたいことができたから」
　青年は開けっ広げに笑う。
「ＭＴＴＢへの依存が、俺の中でどこか変化したみたいだ。まだこだわってはいるけど……あれはそもそもどこから来たんだ？　何からできてるんだろう？」
　真剣な眼差しが、椎井の胸を射抜く。
「誰が、何のために、あれを生み出した？」
「そう。知りたいのね」
　ちょうど良い。そう、素直に思った。ぽっかりと開いた胸の穴を、埋めることができる何かを知った。
　手を引かれて起き上がる。
　見回せば精製工場は青く炎上していたが、椎井にはもはや関係のないことだ。
「なら、行きましょう。空しいお仕事はもう終わり。私は辞表を叩きつけにいくわ……あなたは？」
「じゃー俺は、パンチの一発もお見舞いしちゃおうカナー☆」
　冗談めかして言った彼の微笑みが、椎井にはひどくまぶしく見えた。



　ため息が止まらない。
「いきなり失業だなんて。はあ……」
　河嶋 ちせは街をさまよう。
　混乱をきたした実験島から命からがら逃げのびた後、河嶋は無気力の塊となっていた。
　政府は新たな実験島の候補地を探しているとの報道だが、それもいつになるかは分からない。河嶋の復職は今や絶望的だ。
「けっこう気に入ってたんですけどね……うん？」
　虚ろな瞳で街並みを眺めていたら、一軒のホビーショップの店先へ開かれたショウウィンドウに目が留まった。
　ヨーヨーにけん玉、ブロックトイ、合体変形ロボットに光線銃、レトロな携帯ゲーム機などが雑多に並ぶ中、河嶋を惹きつけたのは、ひとつのボードゲームだった。
「……『ＴＲＰＧ：らっかみ！　寝子島ろっこん戦記』……？　神さまからもらった不思議な力、ろっこんを使って、ヒーローになろう！　ふーん……」
　いつの間にこんなものが発売されていたのか。古巣を思い返して、河嶋の無表情が少しばかり緩む。
「ＴＲＰＧですか。ま、暇なことですし……」
　扉を開き、河嶋は店内へ足を踏み入れる。ふと書きかけだった『キャラクター登録申請書』を思い出して、胸が弾んだ。



　実験島NEK-0J1MA。
　その名もやがて、絶えるだろう。
　神落つる島などどこにもない。
　運命に抗う猫たちの叫びが、今日も響くのみ……彼らもまた生命を振り絞り、日々を生きているのだから。