風呂の日？｜リアクション

風呂の日？

　仄明るいアトリエの床には画材道具が散乱した。描いている途中で引き裂かれたキャンバスは折り重なり、見向きもされない。
　イーゼルに真新しいキャンバスを添える。
　三宅葉月はぼんやりとした緑色の瞳で眺めた。黒くて長いウェーヴした髪は部分的に解れ、汗で湿っている。着ていたブラウスは元の白さを忘れた。飛び散った絵の具で極彩色な模様を作り出す。
　無表情に近い顔で台に置かれたパレットを手に取る。絵筆を握り、油壷に筆先を浸す。
　瞬間、目を見開いた。キャンバスに絵筆を振るう。切り付けるように荒々しい一線を浴びせた。ブラウスに新しい飛沫が加わる。
　構わずに手を動かす。微かな息遣いと絵筆を走らせる音が空間を満たしていく。
　キャンバスには剥き出しの感情が描かれた。色を重ねることで重厚感が増した。暗い要素が加わって静謐を表現し始める。
　息が乱れた。絵筆の動きが鈍くなる。上体をぐらつかせることが多くなった。
　持っていた道具を台に叩き付ける。着ていたブラウスを剥ぎ取るように脱いで一角に投げ捨てた。
　身軽なランジェリー姿となった。
　無音のアトリエに息遣いと絵筆の音が戻る。長い髪を乱し、余計な時間を与えず、一心不乱に描き続けた。

　絵は完成した。両腕は急速に力を失った。絵筆とパレットは床に落ちた。虚脱した状態で絵と向き合う。
　幾重にも感情が塗り重ねられ、禍々しい迫力を放つ。
「これが、私の絵……」
　信じられないと言わんばかりの呟きで見詰める。半ば魅入られていた。
　上体が揺れ始める。疲労を滲ませた顔でのろのろとバスルームへ向かう。
　葉月は広々とした浴室にぺたんと座り込んだ。浴槽に湯が注がれる様子を傍らでぼんやりと眺める。
「……そう、確か」
　浴槽に手を掛けてふらりと立ち上がる。隠された部分は少なく、全裸に近い姿でリビングに入っていった。
　艶やかな光沢のあるテーブルの上に無造作に置かれていた。紙の箱には手書きポップが貼り付けられていた。
『風呂（二十六）の日を記念した試供品です♪』
　葉月は箱を開けて一袋を摘まんだ。袋には湯で煙る野天風呂が描かれ、『寝子の湯』と揺らぐ字体で印刷されていた。
　葉月はバスルームに引き返す。浴室を覗くと浴槽には湯が張られていた。
　着けていたランジェリーを足元に落とす。肌に飛び散った絵の具に目がいく。
　浴室に入ると袋は浴槽の縁に置いた。
　先にシャワーを浴びる。頭から湯を浴びせて上を向く。空いた手は肌の上を滑らせた。最後に軽く髪を絞る。
　葉月は浴槽の側にしゃがむと袋を開けた。回すようにして注ぎ込む。右腕は湯の中に入れて軽く掻き混ぜる。
　湯は白く、微かな青色に変わった。
　葉月は縁を跨いで浴槽の中に座った。剥き出しの肩に手で掬った湯を掛ける。交互に浴びせて両手で露出した肌を撫でる。
「滑らかね」
　安らいだ目をして両肩を沈める。滑らかな浴槽に背中を預け、仰向けに等しい姿で大きく息を吸い込んだ。
「……私は何を、焦っていたの、かしら……」
　翡翠の輝きが秘められた目を静かに閉じてゆく。湯面に浮いた黒髪は浅い呼吸に合わせて広がりを見せた。薄っすらとした湯気が揺らめいて浴室を満たす。

　霧が立ち込めた深い森の泉に身を浸しているかのように、葉月はミステリアスな存在に変わっていった。

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