霧雨に濡れ｜リアクション

霧雨に濡れ

【未練事】

　勢いが弱まり小雨になったところで、綾辻綾花は思い切りよく雨天の下へ飛び出した。
　傘は無い。今日は曇りの予報だったから、持って来るのを止したのが悔やまれる。
「ううっ、重い……」
　飛び出した、というのは主に心情的な表現で、実際は買い込んだ食材を両の手に満載しており、足取りは重い。目を見張るような安価についついつられて、買いすぎてしまった。染みついた猫鳴館暮らしの性というものだろうか。
　さああ。さああ。静かな雨音に、綾花の立てるしぶきが弾ける。
　少しだけ、ブルーな気分。荷物は重くとも、安く食材を購入できた嬉しさやこれらで何を作ろうか、といったワクワク感がすっかり押し流されてしまったように感じた。
「ふう。ふう」
　袋の持ち手が手のひらにきつく食い込む。腕ががくがくと震えた。きっと明日は筋肉痛だろう。こんな時ばかりは、体育会系でない自分を少しばかり恨んだりもする。
「あ。いけない！」
　再び降りが激しくなってきて、綾花は慌てた。傘もなければ歩みも遅く、あまり長雨にさらされてはせっかくの食材も傷んでしまうかもしれない。
　あたりを見回し、手早く駆け込み雨を凌げる軒下を探したところで、
「……あれ？」
　物憂げに佇む、早川珪の姿が目に留まった。

　歩み寄ってもなお、珪は綾花に気づかないようだった。
　ぼんやりと曇天を見上げたままの彼へ、控え目に声をかけた。
「あの……珪、先生？」
「……ん。ああ……あれ？　綾辻さん、どうしたのこんなところで。綾辻さんも雨宿り？」
　浮かべた微笑はどこか透きとおって儚げに見えて、綾花の胸はにわかに高鳴った。
「はい。ついつい、いっぱい買っちゃって。私も雨宿り、いいですか？」
「もちろんだよ。荷物、少し持とうか」
「あ、ありがとうございます！」
　優しい手つき。かすかに指と指がこすれて再び胸が鳴ったが、ともかく珪は荷物の半分を持ってくれて、綾花の腕はずいぶんと楽になった。
「今日は寒いですね」
「うん、風邪を引いてしまいそうだよね。もうすぐ冬だなぁ……」
　桂は雫の降り落ちる灰色の空を見上げる。
　彼がそうすると、どこか距離が遠くなったような気がして、綾花は少し慌てて言葉を繋ぐ。
「珪先生は、雨、好きですか？」
「雨。雨か……」
「私は……好きです。雨の日しか現れないにゃんこがいたり。雨が印象的だったあの本を、また読みたくなったり。雨上がりに虹が出るかもって期待したり。それに、その」
「うん」
　綾花がちらと見上げると、彼の横顔には濡れた前髪が張り付いて、目元は見えなかった。
「珪先生とここでばったり、会えたのも……雨のお蔭です」
　何だか、遠い。
　やがて珪は、きっと無意識のままに、ぽつりと言葉を雨音の中へ零した。
「僕は少し……苦手かな。時折、思い出してしまうから」
　立ち込めた沈黙を紛らわす水の流れに、綾花は思わず感謝した。

　時間の感覚が曖昧だ。どのくらい時間が経っただろう。
「……くしゅんっ」
「っと、大丈夫かい？」
　底冷えする空気。頬の熱さは珪を隣に感じるからかと思い込んでいたが、ひょっとしたら風邪の引き始めだろうか。
「雨も少し弱まってきたね。そろそろ帰ろうか」
「はい、そうですね」
　不意に珪がジャケットを脱ぎ、天を覆うようにして掲げた。
　そうして雨をしのぎながら帰るのだろう、とかすんだような頭で考えていたら、
「送っていくよ。僕の上着で申し訳ないけど、雨合羽代わりにはなるから」
「えっ。えっ？　いえ、あの……！」
　珪はジャケットで綾花の頭をすっぽりと覆うと、半ば強引に綾花の荷物を両手に受け取り、灰色の雲の下へ足を踏み出した。
　振り返り、さあ行こう、と促す。
「……はいっ」
　上気しながら胸元にかき抱いた上着は、雨と、彼の匂いが染みついていた。