霧雨に濡れ｜リアクション

霧雨に濡れ

【濡れた翼】

　静けさを埋めるよう、雨は細やかに鳴っていた。
　さああ。さああと。
（…………ああ）
　先ほどまではあれほどに鳳城翔をざわつかせていた暴力的な音も、今は止んだ。母はもう寝入ったのだろう。
　父も出ていってしまった。その行き先に母は感づいているはずだが、ことさらに責めたりはしない。見ないふりをするだけだ。
（嫌になる）
　両親のどちらをも、翔は責めることができない。藪蛇を恐れ手を触れずにいるのは、翔もまた同じだから。
（うんざりだ）
　倒れた卓をまたぎ、足の砕けた椅子を爪先で小突く。散らかった料理を片付ける気力は母にはもう無いらしい。いつものごとく、後で翔が始末をすることになりそうだ。
　久方ぶりの父との再会が罵詈雑言に彩られることはないのだと、なぜ毎度思い込むのだろう。優しい父に頭を撫でられ、他愛もない土産に喜び弾む会話を楽しんだのも束の間のこと。
　結局は、こうだ。繰り返すばかりだ。
　翔と母の折り合いがつかないのは今に始まったことではない。父も翔をかばってはくれるが、最後はいつも吐き捨てるようなセリフを最後に家を出ていく。
（うんざりだ。弱い自分に……）
　翔も同じだ。母を顧みず、父を追うでもなく、ただ目深にかぶった帽子で自分を隠し、夜へと飛び出してゆく。当てどなく。
　どこへ行こうか。どこへ行けばいい。
　ちり、とキーホルダーが揺れた。

　天から降りしきる雫が全てを洗い流す……などと言うが、今夜の雨は翔の四肢に重く絡みついた。
　暗い路地に歩く意思を奪われ、まぶたを伏せる。縋るように握り込んでいた、カプセルギアの『セイクビリット』が彼へと語りかけた。
『SHOに代わりはいない。お前も本当は、分かっているのではないか？』
「分かってる。分かっているさ、しかし」
　何も両親とのひび割れた関係性に限ったことではない。
　友人たちは？　彼らは、本物だろうか？　あえて友と呼んで然るべき絆というものを、自分は築けているのだろうか？　本当に？
　そんな確信さえ抱けない自分をこそ、翔は責めた。
「……俺は……、っ？」
　家へ戻る気にはなれず、さりとてどこへ行くわけもなく。
　迷う翔の前へと、それは前触れもなく現れた。
　真白く染まった思考から、どうにかその名を絞り出す。
「『ボナパルト２』……？」
　もはや見慣れたカプセルギアが、物言うこともなく雨に打たれて立っていた。
「なぜ……」
『思い煩う時間があるのか？　あちらはやる気のようだぞ』
　セイクビリットの言葉どおり、ボナパルト２は右手の銃を鋭くきらめかせながらに掲げる。銃口は真っすぐこちらを捉えていた。
　彼の姿も無いままに。
「ああ。そうか」
　路地の曲がり角の向こう。かすかな衣擦れの音に、翔は遠い空の晴れ間を想起した。
「分かったよ」
　指先は滑らかにスクリーンを走る。

『してやられたな』
　相棒の声は優しかった。
「ああ……ああ」
　最後まで姿を見せなかった彼もまた。
　今の濡れた顔を見られたくなかった。
　それを察してくれていたことが、きっと翔は、嬉しかった。
　いつもの実力などものの一部も発揮できない、無様な敗北だった。ろくに指も頭も動かなかった、けれどそれが何だというのだろう？
　自分は何一つ分かっていないと思っていた。だから愛されないのだと思っていた。
　けれど。少なくとも今は、
『そら。私の言ったとおりだったろう？　SHO』
　通じ合っていた。そう思いたい。
「……あ」
　唐突に、ここが彼と初めて出会った路地であることに気づいた。あの時も同じように、冷たい雨が降っていたことを。
　頬を伝うのが涙か雨の雫か、翔にはもう分からなかった。
　ただ、声なき声を水のカーテンに覆い隠し、叫んだ。

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