はじまりのセプテンバー｜リアクション

はじまりのセプテンバー

　そんな予感がしていた、とまで言うのは言い過ぎだろうか。
　それでも、八神修の胸にはわずか、そんな願いがあったのだった。
　予感は実現した。願いは成就した。
　なんとなく道を曲がって、面白そうなものがあったら後戻りもして、ぶらぶらぶらと気の向くまま歩いた。それが良かったのかもしれない。
　いま、修は七夜あおいと相対している。
　幸運に感謝したい。
「あ……」
　すでに一度帰宅したのだろう、すり切れた水色のエコバッグを提げたあおいは、さっぱりしたカットソーに着替えていた。袋の隅から、透明なビニールにくるまれたデッキブラシがひょろりと顔を出している。
「やあ」
　邂逅を大げさに喜んだりはしない。待ち伏せしていたと思われるのも困るのでがっつく様子も見せない。軽く修は胸のあたりで手を振る。
　あおいは言った。
「修君は……学校の帰り？」
　修の制服姿に気付いたのだろう。
「ずっと図書室にいた」
「受験勉強だよね。すごいよね」
　さすがあおいだ、俺のことをわかっている――と思ったがそれは口にせず、
「ああ、さすがにくたびれたので、寄り道がてら散歩して帰ろうと思った。考え事をするにもちょうどいいと思ってね。将来のこととか……」
　と言いながら修はごくわずか、そよ風に揺れるシュロの葉のように、あおいの表情が強張ったことに気がついている。
　そうか、将来、なんて言葉を軽々しく使うものではなかったな。
　あおいが進路に迷い、悩んでいることに思い至ったのだ。だから軽く流して、
「寮まで送ろう」
　と修は続けた。
「でも、星ヶ丘から遠ざかるよ」
「いいんだ。今日はもう予定があるわけでもない、送らせてくれ」
　いささか強引にあおいの隣に立つ。
「物騒なニュースも聞いたばかりだし」
「本当？」
「知らないのか？　傷害事件だ。あまり感心しないたぐいの連中が、同様の人間から大きな怪我を負わされたそうだ」
　修も詳細は知らない。ただ、被害者は三人であるにもかかわらず、犯人はたったひとりだったらしいとは聞いていた。
　ぞくりとした様子で、
「うん……じゃあ、お願いするよ」
　言葉少なくあおいは言った。
　雰囲気を明るくすべく、修は飼い猫たちの話など、意図的に明るい話題を選んで話した。
　あおいが抱いてる将来への不安は察しているから、その気持ちに寄り添えたらと思ってる。
　彼女が元気になるよう、言葉で、態度で、支えたい。
「……それで、キャットタワーごと横倒しになったんだ」
　とっておきの話を語ると、ようやくあおいの顔にも笑みが戻ってきた。
　桜花寮のシルエットが見えてきた。
「それで」
　何気なく、けれどもどこか緊張をはらんだ声色であおいは言った。
「修君はもう出した？　進路調査票」
「ああ、初日に」
　進学希望、と書くだけなので話は早かった。学部等は書いていない。
「すごいね、やっぱり修君だね」
　たちまちあおいは、触れたばかりのオジギソウみたいになってしまう。
「悩む必要はないし、なにを書いてもいいと思う。書いた言葉に拘束されるわけじゃないだろう？」
「拘束されちゃう人もいるんだよ」
　生真面目なあおいらしい悩み方ではないか。『いっそ八神家に永久就職するってのはどうだ？』となかば冗談ながら言ってみようかとも思ったものの、まさにその生き方を選び少しも疑念をもっていない自分の母親を想起し、修は口を閉ざした。
　俺はあおいに、俺の母のようになってもらいたいと思っているのか？
　想像する。白い手袋を填め選挙カーの上に立ちマイクを握る自分と、その隣でただニコニコ手を振るあおいを。お揃いのたすきに書かれた『八神おさむ』というゴシック体の太文字を。良妻賢母でござい、と言っているような彼女の地味な着物姿を……。
　違う、と思う。
　そういった生き方を全否定はしないが、少なくとも今のあおいとは絶望的なくらい隔たりがある。
「だとしたらどうだろう」
　と修は切り出した。
「こういう進路で行くつもり、と自分を規定してしまうのではなく、あおいがやってみたいことを書くんだ」
「挑戦したいもの？」
「そう、そこから挑戦の心が芽生えたとしたら素敵だね」
「そうか……」
「考えもせず進学とか就職とか書いてしまって、自分で自分の選択の幅を減らすことはない。やってみたいことならいくらか楽に書けるんじゃないか」
「ありがとう」
　それでやってみるよ、とあおいは告げて、
「じゃあね」
　また、と手を振り桜花寮に消えていく。　
「ああ、また明日」
　あおいの背中が見えなくなっても、まだ修は手を振っていた。
　一本道を変えてみただけで、自分のなかでも一つ、なにかが変わったように思う。

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