アーナンド・ハイイドの朝は忙しい。
五時には目覚めて昼の仕込みを開始している。インド料理店『ザ・グレート・タージ・マハル』、自慢のカレーの準備だ。かつては暴虐なまでの辛さが唯一の売りだったが、最近はマイルドテイストも提供しており、徐々にではあるが固定ファンも獲得しつつある。
合間合間に子どもたちを起こし、朝食を食べさせ保育園のカバンを出す。下の子がすぐ「行きたくない」とグズるので、なだめすかして連れて行くまでが一仕事だ。保育士の先生から伝達事項を聞いてメモして、駆け足で店に戻る。
昼も忙しい。とくに正午からの一時間は目が回るほどだ。人を雇う余裕はないので、給仕も調理もレジ打ちも単身でこなす。
インド料理店は昼限定の営業だけど、店を閉め終え翌日分の買い物まで終える頃には、もう保育園に迎えに行く時間になっている。
夕方も忙しい。子どもたちを連れ帰り夕食をととのえ、DVDを見せ風呂に入れ歯磨きもさせるともう夜の出勤時間だ。ちゃんと寝顔を見てから行きたいのだがそこまでの余裕はない。上の娘に後を託すと、スクーターにまたがってキャバクラ『プロムナード』に向かう。
どんなに急いでいても法定速度は守る。それだけは徹底している。
夜も忙しい。
接客業のしかもオーナーだから客のクレームには店を代表して平謝りだし、体験入店者への指導も、色々と問題を抱えているキャバ嬢たちの相談相手もこなさなければならない。客単価を低く抑えているせいかそれなりに繁盛はしているものの、その分キャバ嬢の回転にはいつも気をつかう。指名が特定の嬢に集中した瞬間は青ざめるし、酔客の理不尽な暴言に黙って耐えねばならぬときもある。
そうして閉店作業を終えくたくたになって帰宅するころにはたいてい、午前二時を少し回っているという次第だ。翌朝も五時起きなのに。
それでもアーナンドは自分を幸せだと思っている。妻は出て行ったが可愛い子どもは三人もいるし、日本国籍は残ったし、寝子島にたくさんの友達もできた。
いつか、インド料理店が繁盛し夜も営業できるようになることがアーナンドのささやかな夢だ。そのときは、プロムナードのほうは誰か信頼できる人に営業譲渡しようと思う。
その日、夜の仕事着である黒スーツに着替えネクタイを巻いている途中で、アーナンドは夢が叶う幻を見た。
なのに顔が痛い。
なぜだろう。頬が冷たく硬いものに接している。
自分が過労で倒れたことを、アーナンドはまだ理解できないでいる。
幸い、まだ五歳ながら上の娘はしっかりしており、救急車を呼ぶだけの知恵があった。
◆ ◆ ◆
鼠(ねずみ)のような印象を受けるかもしれない。そんな中年の小男だった。
がりがりに痩せているため出っ歯が目立つ。肌つやが悪く顔色は赤黒くて、なかば以上白い髪はぼさぼさだ。
猫背気味で顔を前に突き出すようにしており、体型に合っていないだぶついたスーツを着ている。
しかもそのスーツがまた、くたびれた鼠色だったりするのである。暗い路地裏には調和しているとは言えるのだけれども。
丸い眼鏡をかけたこの男は辛いものを食べたばかりのような目で、頭ひとつ半ほど背の高い若者を見上げていた。
「だから、土下座しろって言ってんだろうがよ!」
短パン姿の若者は小男ににじり寄った。肩まで伸ばした金髪の頭頂から黒い地毛が生えている。いわゆるプリン頭というやつだ。
プリン頭の背後には、似たような背格好の若い男が二人ついている。なにがおかしいのか二人ともニヤニヤしていた。
「人にぶつかっといてアイサツなしか、オッサン!?」
「だから、さっきから謝ってるじゃないですか……」
小男は弱々しく抗議するのだが、それがまたプリン頭の嗜虐性を刺激したらしい。
「態度がなってねぇんだよ、謝罪する態度が!」
ひいっと小男は悲鳴とも泣き声ともつかぬ声を上げた。プリン頭の若者に、右膝を蹴り飛ばされたのだった。無様に膝を屈して歩道に両手をつく。
「赤沢さんが土下座しろって言ったら素直に従えや!」
プリンの取り巻きの一人が、小男の背中に蹴りを加えた。
「頭(ず)が高ぇんだよ、頭がよぉ」
ヘラヘラ笑いながらもう一人が、小男の頭に足を置いてぐいと押し下げた。
土下座の形になる。その姿勢のまま男は言った。
「……あの、ところで皆さん、
詠 寛美という学生さんを知りませんかねえ……このあたりにご在住のはずなんですが。ご存じなければ
ナターシャ・カンディンスキーさんという方でも……」
「なに言ってんだコイツ。知るかボケ! あと五分このままでいろや。わかったな!」
あざけりだけを残して、三人は小男をその場に置き去りにする。
小男の眼鏡の奥の目が鈍く光ったことに、赤沢たちが気付くはずもない。
翌朝。警察が保護したときには、三人の若者のうち二人は虫の息だった。
一人は脊髄をへし折られ、もう一人は頭蓋骨が陥没するほど頭頂を砕かれていた。ともに意識はない。
重いハンマーでも叩きつけたような被害だったが、奇妙にもいずれにも、くっきりと足形が残っているのだった。特に頭のほうは足で踏み抜いたように見えた。ありえない話だが。
まだ意識があるのは金髪の男だった。とはいえ彼も重傷だ。右足の、脛から下がちぎれかかっている。血と骨と肉とが、ミンチのようになって散らばっていた。
「あいつが……! あいつが……!」
悲鳴とも泣き声ともつかぬ声で赤沢は言った。金髪ではあるが頭頂は地毛らしく黒で、まるでプリンみたいな頭だった。
◆ ◆ ◆
始業式でも紹介されたけど、と言いながらチョークを取り黒板に名前を書く。
「産休でお休みされる井上先生に代わって、二学期から英語と、このクラスの副担任を任された
今道 芽衣子よ。よろしく」
ぱりっとした出で立ちで芽衣子が述べると、たちまち寝子島中学2年4組の教室はざわめきたった。
夏までアメリカの大学で化学の講師をしていたというではないか。当然英語もペラペラだろうし、スタイル抜群だし、なによりとんでもなく美人でカッコいい。
「あこがれちゃうなあ……」
新田 樹は思わずつぶやいていた。両手で頬を抱えるようにして、机についた肘で支えている。そうしていないとつい、ポワンと浮かび上がってしまいそうだ。しかしただ胸を熱くしているだけではない。樹はちゃっかり、いち早くあの先生と仲良くなるにはどうしたらいいか、そんな計算を頭のなかでしていたりする。
――ふーん……。
そうなんだあ、程度の軽い印象しか
若宮 菫は受けていない。
まあすごい人なのだろうと思うけど、だからといって大人は大人、それもごく常識的な大人だろうとも思うのだ。『あっち』と『こっち』で線引きするなら『あっち』側、学生時代も合コンとかアウトドアスポーツとかリア充ライフにどっぷりで、現実に傷ついた心をゲームやアニメで癒やしていたタイプには見えない。
「先生に質問でーす」
突然、男子の一人が手を挙げた。
「先生は独身のようですけれど、恋人はいますかー?」
まあ定番の質問ではある。定番のセクハラとも言えようけれども。
ところが芽衣子はごく軽く、
「ご想像にお任せするわ」
と答えて肩をすくめた。大人の余裕! 教室はどっと湧く。
「他に質問のある人?」
じゃあ――と
フィリップ・ヨソナラが恐る恐る手を挙げようとしたところで、
「私も質問、いいですか」
黒ぶち眼鏡、硬く縛った三つ編みの少女が手を真っ直ぐに伸ばした。
脇坂さん、と誰かが小声で言った。
脇坂 香住(わきさか・かすみ)、自然体で成績のいい菫とは違って、いわゆる秀才タイプの優等生である。といってもいつも正論ばかり言うところがあって、クラスの中では多少煙たがられていた。
「今道先生は、アメリカの大学講師を任期満了……つまり雇い止めになったというのは本当ですか?」
おっと、と芽衣子は眉を曇らせたがそれも一瞬のことだ。すぐに笑顔で、
「ええそうよ、けれど日本でも教職に就けて嬉しいわ」
「大学講師は研究職であり科学者、ですが中学教師は単なる教員です。失礼ですが先生の経歴、ネットで調べさせて頂きました。あれほどの経歴があったのなら、日本でも研究者になれたはずではありませんか?」
ひく、と芽衣子は頬が強張るのを覚えた「ええそうよ国内でも研究職の公募には全部落ちたのよ!」と衝動的に口走りそうになったものの、そこは大人の余裕だと、ふたたびアルカイックな微笑を浮かべて告げる。
「研究職が上で教職が下という考えは私にはないわ。若い世代の育成も立派な仕事ではなくって?」
「でも英語教師ですよね。サイエンス……理科ではなく」
勝ち誇ったように香住は告げて眼鏡の位置を直した。
英語の産休補助教員しか空きがなかったんだよ! と叫びたくなったが、芽衣子はぐっとこらえてこう言ったのである。
「すべての学問の基本は語学です。国語はもちろん英語も、とても大切な教科じゃない?」
言ってみると確かにそうねと、芽衣子は自分で自分に納得している。いいこと言うじゃん、私。
「はい次に質問のある人~?」
ほがらかな気持ちで見回すと、また元気な手がたくさん上がった。
「じゃあ、そこのきみ」
フィリップを指名しつつ芽衣子は思う。
さっきの眼鏡の子には手こずりそうね――。
前途にあるのは不安? それとも希望?
夏休みを終えびっくりするくらい変身した同級生に驚くか。いいえあなたが驚かせるほうか。
新たな出逢いがある。夏が終わって始まる恋もある。
再会だってきっとある。
はじまりは4月だけじゃない。
もうひとつのスタートライン、はじまりのセプテンバーはここからだ。
長いシナリオガイドになってしまってごめんなさい!
マスターの桂木京介です。
新田 樹さん、若宮 菫さん、フィリップ・ヨソナラさん、ガイドへのご登場ありがとうございます。
もしご参加いただけた場合は、ガイド本文にかかわらず自由にアクションを掛けていただいて大丈夫です。
シナリオ概要
不穏な要素も含んでいますが、基本は日常シナリオです。
ついにはじまったセプテンバー! その初頭を舞台としたフレッシュな物語にしたいと思います。
恋愛も友情も、戦闘も摩訶不思議も、原則ノンジャンルでお願いします。
シチュエーションについて
シナリオガイドでは何人かのキャラクターに状況を用意していますが、仮にかかわるとしても、このシチュエーションに続ける(あるいは参加する)必要はありません。
寝子島中の生徒は、アメリカ帰りの新任産休補助教員こと今道芽衣子先生と絡んでみてもいいでしょうし、単純に夏休みの宿題がまだ終わっていないという事実に震える(!)のもいいでしょう。
いけずな新NPC脇坂 香住をいじってみるのも面白いかも(?)しれませんよー。
アーナンド・ハイイドが倒れたことで、『プロムナード』は大騒ぎになります。この状況にヘルプで入ってくれたり、店を取り仕切ってくれたりしたらとっても感謝されることでしょう。
謎多き新NPC根積(後述)は特定の状況にあるPCには頼まなくても絡んできます……。
NPCについて
以下のNPCは本作において特定の働きをすることでしょう。
●根積(ねづみ)
新NPC。鼠に似た中年男性です。詠 寛美本人ではなく、寛美と親しいキャラクターのもとを訪ねてくる可能性があります。異常なほど丁寧な口調ですが、ぬぐい切れないうさんくささがあります。「この苗字でこのナリでしょう? 冗談みたいですよね」などと自虐的なことを言います。
慇懃無礼で挑発的な言動をとってきますが、こちらがついカッとなってしまうと……?
●ナターシャ・カンディンスキー
シナリオガイドには未登場ですが、暗殺者とおだやかな女性の二重人格を持つNPCです。展開によっては根積に暴力的な制裁を受けることになります。
●今道 芽衣子
かつて五十嵐 尚輝の先輩として、大学院で一緒に研究をしていた女性です。アメリカで研究者をしていたのですが夢破れ、現在は寝子島中学の産休補助教員をしています。
シナリオガイドに描かれた出来事で結構傷ついたので、生徒がいないところでは割としょんぼりしています。
なお、実は彼女は『こっち』側の人間です。かなり。
●アーナンド・ハイイド
シナリオガイド本文で倒れましたが、命には別状なく、病院のベッドでただただ店のことを心配しています。
桂木京介のシナリオに初登場した未登録NPC(『プロムナード』『クラン=G』関係者)であれば、アクションに書いて下されば誰でも必ず登場します。※故人を除く。
公式NPCであれば、100%は保証できないもののできるだけ出すよう調整します。ただしシナリオガイド本文に登場しているNPCなら100%登場します。
※NPCとアクションを絡めたい場合、そのNPCとはどういう関係なのか(初対面、親しい友達、ライバル同士、恋人、運命の相手など。参考シナリオがある場合はページ数まで)を書いておいていただけると助かります。
また、必ずご希望通りの展開になるとは限りません。ご了承下さい
それでは、あなたのご参加を楽しみにお待ちしております。
次はリアクションで会いましょう。
桂木京介でした!