犬だっているんです！｜リアクション

犬だっているんです！

　その予想通り、いえやすは疲労し、おなかも空かせていたのだが、メンチカツの匂いからはずいぶんと離れたところにいた。むくむくとした太い足を交互に前に出し、冷たい廊下のにおいを心細げに嗅ぐ。大半の生徒は下校して、大声でいえやすを驚かすこともなくなっていた。
　閑散とした校舎一階に人のにおいを感じ取り、子犬はそちらへとことこと向かう。その先にはプラチナ・ブロンドのナタリア・シシロヴァがいた。大きな目でまっすぐにナタリアを見る。ふんふんとさかんに鼻をひくつかせながら、大声も出さず、急に乱暴な身振りも取らないナタリアに歩み寄ってきた。
（学校に犬ですか。ふむ）
子犬が歩み寄るわずかな時間に、ナタリアは回想する。
（……私も昔飼っていました。シベリアン・ハスキーのオスでしたね。私はまだ子供でしたが、それでもあの犬がとても賢く、人の心に敏感なのは理解していました）
おそらく、この子犬もナタリアの僅かな心の機微を読み取ろうとしているのだろう。
（犬は人と違って裏切りません。だからこそ、愚かな生き物なのです）
子犬はナタリアに敵意や悪意がないことを理解した。まだ短いが、柴犬らしくきりりと巻いた尾を小さく振り始める。
「……犬は嫌いです。あっちに行きなさい」
ナタリアは冷たい言葉をかける。だがそれは言葉だけだ。じっと立ち、子犬を見つめる以外はなんの行動も起こさない。子犬はナタリアの足元にやってきて、靴に鼻を押し付けた。
（この犬は首輪もあって毛並みもいいですし、ついさっき逃げたばかりの飼い犬でしょう。野犬となった犬の末路は……日本では推して知るべしですね。さて、どうしましょうか）
しゃがみこんで表情をのぞきこんだり、なでてやったりすることはない。ナタリアは冷静に子犬を見つめて、どうしたらいいか、と少しだけ考えてやっていた。ふと思いついて、少しだけ歩いてみる。子犬は後をついてきた。もう少し歩む。するとさらに追ってくる。
「勝手にしなさい。私は何もしませんから」

　つかず離れずの距離で、ナタリアといえやすは廊下を歩く。緊張が解けてきたのか、いえやすは自由気ままに歩き回り、いろいろなもののにおいをかいで確かめていた。ふと、何かに気づいたようにはっと顔を上げる。急にスピードをあげ、いえやすは中庭目指して駆け出して行ってしまった。気まぐれな子犬の動きはいまいましいが、目の前で危険に遭われても気分が悪い。ナタリアは足早に子犬を追った。

　なんだかいいにおいがする。大好きな人のにおいもする。いえやすは魅力的なにおいを目指して走っていた。緑の芝と薄灰色の地を走る、柴犬の赤茶色の毛皮はよく目立つ。カナリアの姿で空から捜索を行っていた桜井ラッセルは、その様子をはっきりと捕らえた。
（動くもの……あれだ！　茶色い犬、柴犬だ）
ラッセルの心臓がどくんと跳ね上がる。これ以上遠くに行く前に知らせなければ！　でも誰にいちばん最初に？　自分の正体を知っていて、すぐに反応してくれる人が、今どこにいるだろう!?　高鳴る鼓動は焦りへとつながっていく。
（そうだ！）
ラッセルはカナリアのさえずりで野鳥たちに呼びかける。御巫時子の声に答えた鳥たちが近くにいるはずだ。
（お前たち、御巫に子犬のことを伝えてくれ！　手分けしていこう！）
急がなければ見失ってしまう。ラッセルははやる心を抑えて、低空飛行で校舎内へと飛び込んだ。