未来の寝子島にあなたはいますか？｜リアクション

未来の寝子島にあなたはいますか？

　教室の机と椅子は全部、後ろに追いやられた。生徒達は二人一組で腹筋を行なっている。何人かは仰向けの姿で伸びていた。
　氷那月蒼破は目にしながら檄を飛ばす。
「腹の底から声を出す為には腹筋が必要になる。各自、心して励むように」
　返事が出来る状態ではなかった。すでに回数は三桁に突入していた。
　浅葱色の目で状況を見やる。蒼破は腕立て伏せに移行した。五十を超えた辺りで落伍者が出始めた。
　金髪の髪をなびかせて蒼破は生徒の間を歩く。
「楽譜の重さを甘くみてはいけない。長時間、持っていられるだけの筋力を身に付ける授業だと心得よ」
　何人かは震える頭で頷いた。
　その後、スクワットを行ない、クールダウンとなるストレッチを経て楽譜が配られた。
　全ての生徒に行き渡ると蒼破は個々の顔を見ながら声を張り上げた。
「ここからが本番だ。喉を開く発声練習を行う」
「先生、少しいいですか」
　疲れ切った顔の女子が怖々と手を挙げた。蒼破は、構わない、と一言で許可した。
「あの、歌はまだですか？　それとピアノは必修なので、そろそろ教えて貰いたいのですが」
「言いたいことはわかる。基礎で時間を取り過ぎて授業の進みが悪くなることを心配しているのだろう」
「その通りです。私だけではなくて、たぶん、皆が同じ気持ちだと思います」
　生徒達は周囲を気にしながら遠慮がちに頷いた。
　蒼破は穏やかな口調で返す。
「あなた達の能力が向上すれば基礎に時間を掛けなくて済む。今以上に厳しい指導を望むのであれば協力は惜しまないつもりだが、どうだろう？」
　生徒達は慌てた。口々に現状維持を強く主張した。
「それでは続きを始める」
　何事もなかったかのように蒼破は授業を続けた。

　音楽教師としての役目を果たし、蒼破は帰路に就いた。青い空にオレンジの西日が混ざる。
　――教職は我ながら悪くない選択だ。
　シーサイドタウンのマンションに着いた。エレベーターを一瞥して隣の階段に目を向けた。
「自分にも厳しく」
　口にして一気に駆け上がる。軽く息を吐いて廊下を早足で歩いた。
　施錠された扉を開けて中へと入る。革靴を脱ぎながらネクタイを緩めた。鞄は椅子に載せてベッドに背中から倒れ込んだ。
　額に手の甲を置いて緩やかに息を吐き出す。
　帰って来るのを待っていたかのようにチャイムが鳴った。
　蒼破はネクタイを引き抜いて起き上がる。カメラで宅配業者の姿を確認して扉を開けた。判を押して荷物を受け取ると速やかに部屋に戻った。
　ベッドの縁に座る。膝の上に荷物を置いた。
　――今月になって初めて届いた物だ。
　包装紙を丁寧に剥がす。漆黒の箱が出てきた。開けると中は真紅で白い薔薇が一輪、収められていた。衝撃を抑える効果を狙っているのか。周りを繊細な金細工で埋められていた。
　震える指先で一輪の白薔薇を取り出す。花弁に鼻を近づける。
　――甘い香りがする。微かで凛とした強さを感じる。
　花言葉は複数あるが。
「……あなたしかいない」
　口にしてシャツの胸元を強く握り締める。急に胸が痛み出したかのように頭を下げて震えた。
　蒼破はゆっくりと顔を上げる。手の中の白薔薇を見詰めた。
「私は兄と」
　唇を噛んだ。
　――共に公の場で演奏をする。
　白薔薇に向かって蒼破はたどたどしい言葉を呟いた。
「あの日の約束を、果たせる日が、本当に、来るのだろうか……」
　隅に置いたゴミ箱に目がいく。しかし、捨てることは出来なかった。

　暗くなった部屋で蒼破は白薔薇を見詰め続けた。

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