――荘助！　ねこふぇすへ行くぞ！　和楽器ばんどの演奏もあるらしいのだ！
　幼馴染の小犬丸 信乃がドアを開けるなり言い放ったときの弾ける笑顔を思い出し、
　――さあさあいざ参らん！
　手を引かんばかりに先に立って駆けだす小柄な背中やしなやかな脛を瞼の裏に浮かべ、鴉取 荘助は朱色の瞳を柔らかく細める。そうして瞼を開ければ、傍らでわくわくと碧眼を輝かせステージを見つめる信乃がいる。
　ライブの熱気に包まれる寝子ヶ浜海岸の人込みの中にあって、荘助が視線を注ぐのはライブでも水着の女の子たちでもなく、幼馴染の信乃ひとりのみ。
「荘助！」
「はい、信乃さん」
　和太鼓に三味線、箏に尺八。ステージ上で奏でられる和楽器の音に耳を傾けながら、信乃は隣の荘助を見遣る。ずっと前からこちらを見ていたかのように正面から視線がぶつかって、信乃は髪と同じ銀の眉を僅かに寄せた。
「和楽器ばんど殿の音楽を聞いているか、荘助」
「もちろんですよ、信乃さん」
「そうか！」
　頷く荘助の仕草に、信乃はすぐにご機嫌を取り戻す。なんといっても、大好きな和のものが評価されているのだ。不機嫌になれという方が無理というもの。
「確かに和風であるのに現代にも溶け込む音だな、荘助」
「そうですね、信乃さん」
「周りの若者達も聞きほれていらっしゃる」
　信乃が和楽器バンドの音楽を最後の最後まで聞き終え、メンバーがステージからひとりも居なくなるまで熱い眼差しで見送り終えるのをきちんと見つめてから、余韻に浸ってとんでもなく可愛らしい顔で呆けている信乃も堪能してから、荘助は信乃の視線をステージから少し離れた場所に展開される移動遊園地へと導く。

「信乃さん」
「む？」
「あっちに移動遊園地もありますよ！」
「遊園地とな」
　余り行ったことがなかったな、と犬の尻尾じみたひとつ結びの銀髪を揺らして首を傾げる信乃の横顔に見惚れそうになりながら、荘助は和楽器バンドの演奏中に聞いた女の子たちの噂話を思う。
　――移動遊園地のミラーメイズね、ときめかないと出られないんだって！
　流石に眉唾ものではあるものの、ミラーメイズは鏡がいっぱい。ということは、
(右にも左にも信乃さんがたくさんってことでは！？)
　可愛い幼馴染の顔をぐるりと360度楽しめるとあっては、どうあっても行かねばなるまい。万難を排して入らねばなるまい。
　ステージ前を離れ、太陽の熱と人いきれに満ちる砂浜を歩いて移動遊園地へと向かう。
　赤やピンクの薔薇で作られた遊園地への門の前で、一昔前のマジシャンのような格好をした遊園地の女主人と着ぐるみには見えないものの着ぐるみらしい球体関節人形に迎え入れられ、ふたりは花の装飾に溢れるそう広くない園内に足を踏み入れる。
　蔓薔薇に飾られた観覧車に、天使と悪魔が遊ぶ回転木馬、白い大理石風の壁で囲われたミラーメイズ。
「信乃さん、鏡の迷宮はどうですか？」
　暴れん坊な殿様が白馬で海岸を駆るテレビ番組を連想してか、回転木馬に視線を奪われがちな信乃に向け、荘助は半ば必死にミラーメイズを推薦する。
「荘助は鏡迷宮に行きたいのか」
「試練ですよ」
　ニコニコと言えば、信乃は瞬く間に眦をキリリと上げた。
「試練とあればこの小犬丸信乃、逃げはせぬ！」
　簡単に乗せられさあさあ行くぞと張り切る信乃に、荘助は大きく頷く。
「はい、信乃さん！」
　案内の球体関節人形に誘導され、白薔薇が描かれた壁に見える扉を潜って迷路に入る。入った途端、上下左右、全ての空間が鏡に包まれ、
「はー」
　荘助は感嘆じみた声を洩らす。鏡の迷路の煩雑さに、ではもちろんない。
(どっち見ても鏡に映った信乃さん……)
「右を見ても正面を見ても鏡、ということは正解は左でござる！」
　合わせ鏡の中、数え切れぬほど映り込む大好きな信乃の姿に荘助はもう一度溜息を零す。
(最高！)
　しかもすぐそばには、嬉々として迷宮を突き進もうとする本物もいる。
(あとは俺が鏡に映らなければ完璧なんだけどな～)
　内心の幸せも不幸せも微塵も顔に出さず、信乃の半歩後ろを影のように付き従う。その位置が一番、気取られずに信乃の顔を正面から見つめるのにいい。
(正面に鏡が来た時に映る信乃さんの顔～～)
　心の内側でだけメロメロする。存分にメロメロ蕩ける。
(最高にいい～～)
　そう思ってから、噂に聞いた迷宮の仕組みにはたと思い至った。ときめかなければこの迷宮から出られないというのであれば、
(信乃さんという存在そのものがトキメキみたいなもんだからこれは～)
　きっとすぐに迷宮から出てしまう。
(もっと堪能したかった～)
　右を見れば信乃の可愛い横顔、左を見ても信乃の可愛い横顔。天井にはつつきたくなる銀色のつむじ、足元には頬ずりしたくなる脛。どちらを見ても可愛いひとが写っているここは天国だ。
　心の中で愛おしさに床をごろんごろん転がり悶え、お祭り騒ぎを開催し続けていたものの、
「外から見た様子ではそこまでの迷宮と見えなかったが……」
　ふと見遣った正面の信乃さんが困惑したような顔をしている。困った顔もとっても可愛い。
「これはなかなかどうして、攻略しがいのある迷宮だ」
　腕がなるというもの、とばかり勝気に笑む唇だってやっぱりとっても可愛い。ちらり、鏡越しにその信乃に見られ、荘助は内心でのみ顔を両手で覆って仰け反った。
(可愛い！　信乃さんカワイイ！)
　素知らぬ顔で半歩後ろを歩く荘助の様子に、信乃はくくくと喉を鳴らして笑う。荘助は、こちらが見ているとはきっと微塵も気づいていない。
(あ奴も楽しそうだ)
　思っていたより攻略に時間が掛かってはいるが、この鏡迷宮は悪くない。
(……しかし)
　とはいえ、もう随分と歩いている。あまりにも広すぎはしまいか。
　ぐぬぬ、と信乃は真剣に唸る。どこかで道を間違えただろうか。
(先導しておるというのに情けない！)
　黙ってついて来てくれている荘助を歩かせすぎるのも忍びない。
(ここは奴を置いて一度一人で駆け回ってみるのも手か？)
　気づけば空っぽになっているお腹を押さえ、眉間に力をこめて思考を巡らせていたとき、
「どうしました信乃さん、迷っちゃいました？」
　置いて行かれることに勘付いたかの如き素早さで荘助が口を開いた。
「だ、大丈夫だ、心配するな！」
　振り返る信乃と数秒見つめ合って、荘助はふと気づいた。
(もしかして……)
　片方がときめくだけではこの迷宮からの脱出は叶わないのか。
(マズイ！！)
　自分が信乃にときめくのは三秒あれば簡単だが、
(俺にときめく信乃さんは解釈違いだ)
　それはとてもとても重大な問題だ。下手をしなくとも死んでしまうくらいの重要案件だ。
　一分の隙もないポーカーフェイスのまま、荘助はひたすらに苦悩する。このまま迷い続けるのは、自分は信乃の姿を思うさま堪能できて最高ではあるが、肝心の信乃が飽きてしまうのはよくない。
(こうなれば……！)
「信乃さん」
　荘助は小柄な信乃に覆い被さる格好で信乃を鏡際に追い詰める。鏡にどんと両手を突いて信乃の身に身を寄せる。間近に見下ろす。
「何がしたいのだ？」
「ここから出たら……」
　見仰いでくる信乃の透き通った純粋な眼差しにくらくらしながら、荘助は低く囁きかける。
「練乳たっぷりのかき氷、食べましょうね」
「……練乳たっぷりのかき氷だと！？」
「好きなだけかけてもいいお店、見つけておきました」
　荘助の言葉は、信乃の胸を、正確には空っぽのお腹を的確に突いた。
(真っ白な氷にいちごの蜜、赤い蜜を挟むようにたっっぷりかかる乳白色の練乳……)
　かき氷に胸をときめかせ、信乃は眦を決する。
「それは……是非とも参らねば！」
　こうしてはおれぬ、と信乃は荘助の手を取って疾風の如く駆けだした。全てはかき氷を食べるために。
(は～)
　信乃に手を引かれながら、荘助はまた心中でのみうっとりする。
(信乃さんの顔が輝くのかわいい……)
　かき氷に胸を轟かせる信乃と、信乃に胸をときめかせる荘助の行く手、先ほどまでは決して見つけられなかった迷宮の出口が姿を現した。