赤い実鳴らそ、ほおずき市｜リアクション

赤い実鳴らそ、ほおずき市

　濡れた躰を拭くことすらできない。
　精魂すべて果てたのだ。
　二匹の白蛇のように、もつれあったまま互いの呼吸を聞いている。
　胸に置かれたままの彼女の頭を、おしのける力すら朝鳥さゆるには残っていない。
　滅多にないことだ。
　昨夜獣（けだもの）の情交のように貪った気持ちに、目ざめてふたたび襲われるとは。
　どれほど長くそうしていただろう。
　ようやく、深く息を吸ってさゆるは唇を動かす。
「名前……」
　え？　と気怠げに彼女が訊き返した。さゆるの胸元に息がかかる。
「私はさゆる。朝鳥さゆる……あなたは？」
　以前、ステッラ・デッラ・コリーナで情事に溺れた女、その相手に偶然巡り会ったのは昨夜のこと。再会した場所はもう、忘れてしまった。
　視線だけでさゆるは彼女を誘った。彼女も、視線だけで応じた。
　会話らしい会話はなかったと思う。もつれ合うようにしてホテルに入り、服を脱ぐのももどかしい勢いでさゆるは彼女にに蹂躙された。もっとも、さゆるのほうも彼女を蹂躙したのだが。
　だから名乗り合う時間などなかった。
　しばらく沈黙した後、ようやく彼女は言った。
「名前なんて意味がないことよ。……でもこの島じゃ、まみ子と呼ばれてる」
「まみ子……」
「店に出てるときの名前。それ以外は、寝子島の外に置いてきた」
　シーツを払いのけ片膝立ちになると、まみ子はサイドテーブルのバッグに手を伸ばす。シガレットケースを取り出して一本咥え、断りもせずに火を付けた。
　まるで高校生、下手をすると中学生に見えかねない顔立ちのまみ子だが、こうして紫煙をくゆらせ天井を見上げていると、やはり自分より歳上だとさゆるには思えた。なぜだか哀しそうな表情をしている――そんな気もした。
　まみ子、という源氏名を心で繰り返し、さゆるはベッドから滑り降りた。

　午（ひる）過ぎになって、朝鳥さゆるはほおずき市に向かった。
　特に興味があったわけではない。なんとなく気が向いただけだ。
　酔狂ね、と冷笑したというのに、なぜだかまみ子も付き合うと言った。
　歓迎する気はないが断る理由もなく、たまたま隣り合っただけの間柄のように、それ以上の会話もなくふたりは歩を進めた。
　途中、貸衣装屋に立ち寄った。
「どうせなら」
　とまみ子が短く提案したまでのものだった。
　試着室。さゆるは姿見に映る自分の姿を見ている。

　そこに映るのは、借り物の浴衣に身を包んだ、二十三、四歳に見える物憂げな美貌の女。
　しかし中身は何もない、それはさゆる自身が一番知っている。
　カーテンを開けてさゆるが出ると、同じく浴衣姿のまみ子が待っていた。
「……綺麗ね。憎らしいくらい」
　ふふとまみ子は笑った。そういえば、彼女が声を出して笑うのをはじめて聞いたとさゆるは思った。
　けれどまみ子は知るまい。
　さゆるの内面は、徹底的に荒廃して摩耗しきっているということを。
　あらゆる感情は死に絶え、苦痛だけがギリギリ彼女を人としてこの世に定義させているということを。
　あの狂った夜──彼女の実父、片篠由樹弥を兄の片篠藍人が殺した夜……藍人と互いを傷つけ合い犯し合うような情事に溺れた夜……。
　――気が付けば、苦痛の中でしか生きられない自分がいる。
　褒められようと礼もなにも返さず、
「行きましょう」
　と無感動に告げて、さゆるは先に歩き出した。