もしものわたし｜リアクション

もしものわたし

　この《平行世界》では、八神修という名前は、『彼』のものではない。
　現実の『彼』が生きる世界とは違って、この世界では、《本来の八神修》が生きているからだ。
　所謂私生児である『彼』の名前は、秀（しゅう）。
　これは、八神家の跡取りとしての役目を受け継ぐ必要がなかった世界での、『彼』の日常だ。

◇

　秀は、本土に位置する、公立の普通科高校に通っている。
　何と言うこともない普通の集合住宅へと、いつものように鍵を開けて、帰宅。
　今日は母が外出しているので、「ただいま」の声に応じるものはなかった。
「さて、と」
　早速取り掛かるのは、夕食の準備だ。
　冷蔵庫の中身と、自分のお腹。
　それぞれに相談して、ブロッコリーのサラダと酢豚を、慣れた手つきで、手際良く作った。
（ん、結構美味い）
　味見をして、満足げに口元を綻ばせる秀。
　これなら、じきに帰ってくる母も、きっと喜んでくれるだろう。
　母の帰りを待つ間は、勉強タイムだ。
　宿題をすらすらと終わらせて、今度は、数学の問題集と向き合う。
　苦手を克服しよう、との意図だが、これが中々、思ったようにはいかない。
（この問題、どうやって解くんだ？）
　頭を捻って、捻って……けれど結局答えを見つけ出せずに、解説に目を通す。
　その解説の内容に、秀の表情は、益々難しいものになった。
「むむむ……」
　思わず、唸り声が漏れてしまう。
　どんなに読み込んでも、自力で問題を解ける域には達することができず、
「だあー、疲れたー」
　と、秀は、カーペットにごろりと転がった。
　頭が加熱してる……と、ぐってり脱力していたところへ、
「ただいま……あら？　秀、もしかして、お勉強をサボってたのかしら？」
　なんて言いながら、帰宅した母が顔を出した。
　教育熱心が過ぎる親のような発言だが、ちょっとした冗談だ。
　声には柔らかな色が滲んでいるし、青い目だって、優しく細められている。
　口元に笑みを乗せれば、見惚れるような金色の髪が、ふわりと揺れた。
　慌てて、がばと身を起こす秀。
「サボってない、サボってないよ。たまたま休憩だってば」
「ふふ、わかってるわよ、秀。夕飯、いい匂いね。ありがとう」

「どういたしまして。……おかえり！」
　事務と通訳の正社員をしている母は、今日はいつもよりも身綺麗だ。
　秀の母は、時折こうして、誰かに会いに行く。
　恐らく、その相手は父だろう。
　そこに愛があるのを知っているから、秀は、母を一度も責めたことはない。
　学校で、偶に、母子家庭であることを理由に陰口を叩かれもするが、気にならなかった。
「すぐご飯にする？」
「ええ。今日のメニューは何かしら、私の愛しいコックさん？」
　茶目っ気たっぷりに言ってにっこりと笑う母のことが、秀は、好きなのだ。

「秀も、部活に入ればいいのに。好きな部にいけば良いのよ？」
　食事中、母がそんなことを言うものだから、
「いいよ、俺は。勉強だって忙しいしね」
　と、小さく笑って応じる秀。すると母は、
「あ。そういえば、統一模試の結果、そろそろじゃなかった？」
　なんて、「思い出した！」とばかりに話題を変えた。
「うあー、覚えてたかー」
　ちょっと待ってて、と、机から模試の結果を取ってくる。
「秀、答案も見せて」
「……はい」
　すごすごとそちらも手渡せば、「頑張ってるわね」と母はにこりとした。
「でも、志望大学のＡ判定には微妙ラインだから……」
「うーん、やっぱり、数学よねぇ……食事が終わったら、ちょっと一緒に勉強する？」
「え、数学、見てくれるの？　疲れてるんじゃない？」
「少しくらい、大丈夫よ」
　いいの？　と再度確かめる声が、自然と華やぐ。
　親子の幸せな時間が、そこには、穏やかに座していた。