もしものわたし｜リアクション

もしものわたし

　先ず断っておくと、この世界に、アケーチ・タッマーキという名前の男は存在しない。
　明智珠樹という名が、この《平行世界》での、彼の本名だ。

◇

　天気の良い、とある夏の日のこと。
　珠樹は、折角の休日だからと、自宅マンションの一室の片付けに励んでいた。
　妻の千亜とのこれからの日々で彩っていく、この愛おしき新たな住まい。
　綺麗にしておきたい、という想いは、千亜への愛があればこそ余計に、至極自然に溢れ出る。
　窓の外では、蝉の鳴く声がわんわんと唸っているが、室内の温度は丁度いい。
　だから珠樹は、暑さに邪魔されることなしに、黙々と本棚の整理に従事することができた。
「ん～、この美術書は学校に持っていこうかな……あ、」
　滑らかに動いていた珠樹の手が、ふと、止まる。
　珠樹の眼差しは、美術書のすぐ近くに並んでいるアルバムへと注がれていた。
　手が、当たり前のようにそちらへと伸びる。
　珠樹はアルバムの頁をぱらぱらと捲って、捲る度に、表情を柔らかくしていった。
　愛しい千亜の、様々な姿、様々な表情が、そこには鮮やかに切り取られていたから。
「珠樹くん、掃除サボって、何見てるの？」
　千亜が、栗色の髪を揺らして、珠樹の手元を覗き込んでくる。
　この春に結婚してから、数カ月。
　恋人だった頃から変わらず、いや、日を重ねる毎に愛おしさを増す大切な人へと、珠樹は微笑を向けた。
「綺麗で愛らしい奥さんのドレス姿だよ」
「え？　……あ、結婚式の写真？」
　千亜の声が少し跳ねたのは、照れから来るものだろう。
　そういうところも堪らなく可愛くて、珠樹の眦は、放っておいても下がってしまう。
「春の写真だけど、なんだか懐かしく感じるね。でも、」
「でも？」

「写真を見ると……いや、見なくても。直ぐに、あの素敵で幸福な結婚式を思い出せる」

「綺麗だよ、僕の花嫁さん」
　囁きに、ウェディングドレス姿の千亜は、頬をパッと朱に染めた。
　栗色の瞳は、少し、潤んでいる。
　緊張しているのかな？　彼女も僕と同じで、例えようもなく嬉しいって思ってくれているのかな？
　濡れた瞳の意味を寸の間考える珠樹へと、
　――ふわり。
　花嫁は、幸せを目に見える形にしたそのものみたいな、格別の笑顔を向けた。

　誓いの口付けを交わした時の、少し恥ずかしそうな表情も忘れられない。忘れられるわけがない。
　式は、沢山の祝福に溢れていた、と珠樹は鮮明に思い出す。
　珠樹の家族、千亜の家族、友人達。
　多くの人達に優しく見守られて、２人は永遠を誓った。
「ウェディングドレスを着た君は、本当に、女神みたいだったなぁ」
「珠樹くん……大袈裟」
「そんなことないよ。勿論、普段の千亜さんも愛しいけれどね」
　くすり、笑みを落とせば、「もう」と小さく頬を膨らませる、子供みたいな照れ隠し。
　自分が手に入れた、今ここにある幸せのきらきらしさを、珠樹は思った。
　平凡だけれど、かけがえのない毎日が、ここに、確かにある。だから。
（僕は……手放したくない。この時間が、ずっとずっと続きますように）
　そう、心の底から願わずにはいられなかった。
「……あ。ハロウィンのコスプレ写真も出て来た」
「うっ。……もー、何でも取ってあるんだから……」
「ねぇ、久々に……着てみない？」
　艶っぽく笑みを零せば、千亜のかんばせは、あっという間に見惚れるような薔薇色に染まった。

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