喜雨に濡れ｜リアクション

喜雨に濡れ

【雨に嗤う。】

　悪夢を見た。筆舌に尽くしがたい夜の再現を。
　夢の主を何と言い表したものか。『Malice』か。あるいは『葉利沢倫理子』か。それらは同一の存在でありながらも真逆の概念を内包している。
　倫理子はMaliceでありMaliceでない。Maliceは倫理子であり倫理子でない。
　剥離は日ごと広がり続けているが、未だ互いが互いから決別するには至らない。
　Maliceにとって、それこそが許容しがたい暗鬱と怒りを生む要因となった。

　夜は、Maliceのものだ。ことに近頃はその傾向が強かった。
　夜毎に倫理子を苛む悪夢がスイッチとなるのだろうか。あの下衆らが倫理子へ注ぎ込んだ悪意は褪せることなく彼女を蹂躙し続け、それが結果、Maliceを降臨せしめているのだろうか。
「ふふっ」
　いずれにしろ、今この時、夜はMaliceのものだ。倫理子が決して身に纏うことのない煽情的な服を着込んで、深夜を闊歩する。
　ネオンに彩られた街並みは大様にしてMaliceを受け入れ、歓待した。優越、嗜虐、快楽。満たされないMaliceへいくばくかの慰みを提供してくれた。それらが本当に自身の欲するものであるのかは定かでないが、Maliceは身を委ね、貪った。倫理子が望まぬ行為こそが自身を確立するのだという茫洋たる予感があった。
　しかしながら、今日の街は一味違ったやり口でMaliceを出迎えた。
「あら……雨」
　雷光轟き、瞬く間に街はさめざめと降る雫に支配され、その姿を一変させた。雫はネオンの青や紫を滲ませ、路上駐車の屋根を叩き、アスファルトを席巻した。
　雫らはそれに飽き足らずMaliceを濡らし、Maliceへとあらゆる道程をたどり侵入し始めた。薄い布地は肌へ張り付き、垂れた前髪は片目を覆い、伝う雫が胸元へ落ち谷間へ迷い込んだ。
　Maliceは、この変化を歓迎した。
　変化こそ、Maliceの望みだ。暗く、暗く。深く、深く。より変化を顕著にしていなかければならない。
　自らを勝ち取るために。

　雨の公園は当然のごとく来訪者を拒絶した。闇。降りしきる雨。孤独を堪能するには他に無い好機だ。
「あの子なら、恐怖で泣き叫んでしまうわね」
　それこそが、Maliceには必要な因子なのだ。安寧に浸っていては、変化が生まれることもない。
　ぼんやりと滲む街灯が照らす横顔は真白く蒼く、美しく、幸福に見えた。Maliceは雨の夜に高揚していた。
　Maliceが享受する時は短いが、このところはそれも徐々に長くなりつつある。夜を迎えるたび、実感を得た。そして比例するように、渇望が湧きだした。
「倫理子ちゃん。あなたは、自分の身が穢されたと嘆くけど」
　手に入れる。そうすべきだ。自分にこそふさわしい。この世の何をも謳歌することのない、あんな臆病者など。
「私は……穢れた身すら、持っていないのよ」
　胸を焦がす嫉妬に突き動かされるまま、狂わされるまま、Maliceは雨に踊った。孤独を舞った。この時を謳歌した。
　私のものだ。私だけのものだ。
　手に入れる。必ず。絶対に。
「ふふ。はは、あはは。はははははは」
　Maliceは雨に嗤う。夜の公園は、何一つ持たされずにこの世に生み落とされた少女がこの時、たった一つだけ手に入れた、自由になる財産だ。
　徐々に。少しずつ。それでもいい。
　全てを手にするその日まで、Maliceは嗤い続ける。