喜雨に濡れ｜リアクション

喜雨に濡れ

【雨と、ふたり。】

　さあさあと窓をなぞる雨音はさしずめ、心落ち着かせる劇伴でしょうか。
　ヒロインは想い人の横顔を熱っぽく見つめては、ほうっ。濡れた吐息を漏らすのです。
「喜雨到る、絶えて久しき戸樋奏で。といったところかな」
　俳人が諳んじた一句など借りてそう表現したあたりが、司書教諭たる早川珪らしさであったかもしれません。
　ちらとこちらを見やり、浮かべた彼のほのかな微笑み。
「そう……ですね。ふふ……」
　とく。とく。とくん。綾辻綾花はこんな時、早まる鼓動を抑える術を知りません。
　放課後の図書室。ふたりきり。聞こえるのは互いの仕事に伴う音と、かすかな衣擦れ。滞りない、滑らかな雨音。
　頬の紅潮のあまり、思わず目をそらし窓を眺めたなら、伝い落ちる雨粒はまるで、天から降り落ちる涙から今まさに、水晶が形作られてゆくかのよう。きらり、きらり。
「天気予報。外れちゃいましたね。珪先生は、傘持ってきてますか？　降水確率が低かったから、持ってこなかったんです」
　頭へ浮かんだ詩的な言葉がうっかり口から飛び出してしまわないよう、綾花は現実的な話題を振りました。
「それが、僕も忘れてしまってね。しばらくはここで仕事かな」
　はは、と彼が白い歯をちらり見せると、綾花の頬も自然と緩みます。
　本降りにならないうちにと、多くの生徒たちはひと足早く下校してしまったようです。図書室を利用する者はなく、ふたりだけの空間が保つ静寂に、綾花はこの時ができるだけ長く続くようにと願わずにいられません。
　カウンターの中、ひとつ間を開けた向こうの椅子に、想い人の消せない存在感はありました。
　とく。とく。とくん。雨にも負けないその音は、収まるどころか高鳴りを増すばかり。
「おっと。遠雷が……」
　含むようなごろろという響きを、遠くの空に聞いた、その直後。
「きゃあっ！？」
　窓の向こうが紫がかった光に包まれたかと思うと、巨大な雷鳴が耳を貫き、綾花の肩がびくりと跳ねました。雨足は強くなり、いよいよ雷まで鳴り始めたようです。
　雨に足止めされ、帰る時間が遅くなるのは困ってしまうけれど、綾花にとっては痛し痒しといったところでしょうか。
「なかなか止みませんね。雷……ここに落ちませんよね？」
　なんて言った瞬間にも、ひときわに大きな雷鳴が轟き、綾花は思わず身をすくませます。
「今のは近かったね。驚いた……あ」
　綾花の不安げな表情が和らぐようにと、珪は安堵させるような言葉を口にしようとしたのでしょう。
　けれどその前に、図書室の天井を照らしていた蛍光灯の明かりがぷっつりと途絶え、あたりは薄暗さに閉ざされました。
「て、停電？」
「そのようだね。まいったな」
　ふと。
　立ち上がった珪先生の行動に、他意は無かったことでしょう。
「ええと、確か懐中電灯がこのへんに……あった。ちょっと様子を見てくるよ。綾辻さんはここにいてね」
「あっ。ま、待ってください！」
　彼はきっと生徒のため、教師として当たり前のことをしようと思い立っただけに過ぎません。けれど、ぱちりと懐中電灯を点けた彼を、綾花は呼び止めました
「少し……不安なので。その。いっしょにいて……もらえませんか？」
　綾花の、それはせいいっぱいの言葉でした。うっかりするとダダ漏れになってしまいそうな想いを、今は胸に押さえつけて。気丈にあらんとしながらも、唇はかすかに震えて。
　見上げた彼女の瞳は、いささかに潤んでいました。
　珪先生は少し首を傾げて、そのきらめきを覗き込み、やがて。
「……うん。そうだね。電気は直につくだろうしね」
　再び彼が腰かけたのは、綾花の真横。お隣です。
　それから間もなく、珪の言葉どおりに電気は復旧しました。
　けれど、その短くも濃密な時間に交わした、彼とのおしゃべり。際限なく弾む、心地よい胸の動揺。
　綾花にとっては、忘れがたいひと時となったことでしょう。

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