茜空の向こう側｜リアクション

茜空の向こう側

◆過去の手招き

　橙を辿り、双瞼を開いた浮舟久雨が見たのは広い部屋だった。
「……？」
　大きな窓の向こうのベランダ。
　趣味の悪い、嫌悪感すら覚える最低限の家具と積まれた勉強道具。
（何だ、覚えが……）
　心がざわりと音を立てた。
　ここは。
　そうして気がつく、視線の先にいる少女に。
　高価そうなワンピースを纏う少女の齢は六歳ほど。　
　束ねられていない長く綺麗な黒髪、光の無い虚ろな碧眼。
　久雨は息をするのも忘れていた。
　あれは――、
「わた、し……」
　過去の自身だった。
　姿も記憶も、忘れてしまいたかったあの頃のもの。
（何故、過去の風景が……ここに？）
　呆然と立ち尽くす。

　久雨の生まれた家は裕福で、物に不自由する生活は無かった。
　しかし彼女の両親は下品で粗野、そして自分勝手を極めていて。
　家に寄りつくことも無いというのに、娘――久雨の自由だけは、勉強と習い事という首輪で縛り付けた。
　人と言うよりはまるで物のような扱いが彼女を苦しめた。
　彼女の一日は勉強と習い事で成り立ち、それ以外は何もない。
　他に記憶に残るものなど何一つ。
　機械のように繰り返し、覚えるだけの作業。
　人形と変わらない、操られるだけの日々。
　それは彼女を蝕み、心を少しずつ壊して、そして訪れた『あの日』を堺に考えることを捨てた。
　感情も一緒に失くしてしまった。

　最近になって漸く、外の世界に触れ始めて、幸せを一つ一つ実感して。
　あの日々を忘れてしまおうと思っていた。
　自分で考え、選択するのだと決意した。
　けれど。
　染み付いた記憶は消えない。忘れられない。
　鮮明で、鮮やかで、何一つ色褪せない。
　消したい記憶が消えない。
　自身に落胆する、嫌になる。
　どれだけ繕った所で所詮は浅い、それでいて覗いた先は空虚な。

（本当の私は、ただの　　　　でしか、）

　黒いものが心を蝕む。
　――ああ、これでは考えることをやめる前と同じだ。
　同時に感じた視線に恐る恐る視線を向けた。
　少女がこっちを見ている。
『私』が見ているのだ。
　視線を辿った先、自身の異変にも気がつく。
　染めた筈の髪色は黒へと戻り、あったはずの髪留めが見当たらない。
　一体何処にと視線を散らす。
『まだ……変われていないんだ』　
「なっ、私は――」
『そうなったのが、しょうこ、だから……』
　わたしは貴女。
　碧の瞳が責め立てる、まるで消さない為に刻みつけるかのように。

『……わたしを、見て、』

　最後に響いたのは願いのような聲。

「え……」
　再び目を開いた時には茜色が広がっていた。
　焦り確認した髪色と髪留め。
「元通りか」
　一先ずは胸を撫で下ろすけれど、呼気は乱れたまま。
「どうして……」　
　ぽつりと零した言葉さえ茜色に融けていく。
　幻だったのか、夢だったのか。
　思い出していただけなのか。
　現実との線は、まだ曖昧なままだけど。
　鼓動だけは、確かにこの世界で刻まれている。
　
　垣間見えた奥底の闇。
　碧の瞳は何を思い、何を宿したのか。
　答えもまた、彼女自身の中に。