【直風 満帆の場合】

　コン、……コン。

「どうぞ、開いてるわ」
　ためらいがちなノックに樋口 弥生先生が返事をしても、反応がない。教材作りの手を休め、先生がそっと音楽準備室のドアを開けると、外に小さな女の子が立っていた。
「弥生せんせ……相談乗って欲しいねんけど……ええかなぁ？」
　綺麗なサファイアブルーの瞳も伏し目がちに、もじもじとそう聞いたのは、１年１０組の直風 満帆だった。
「もちろんよ。遠慮しないで、さあ入って」
　何か飲む？と尋ねる先生に返事をしながら、おっかなびっくり準備室に足を踏み入れる満帆。
「あんな、同級生とかには相談しにくいんやけど……弥生せんせなら、と思てな」
　それで、樋口先生も察したようだった。腰掛けた彼女に、
「あなたも──もれいび、さん？」
「せやねん！」
　借りてきた猫のようにおとなしかった満帆が、そのひと言で堰を切ったように話し始めた。
「うちのろっこんは、猫に変身するって能力やねん」
「まぁ……」
　と驚く先生に、
「いや変身自体は嫌やないし、普段とは違う視点で見える風景とか結構気に入ってるねんで？
　せやけど……
　……なんで子猫なんやろう……」
　ずーーん、と椅子の上で膝を抱える満帆に、「あら子猫になれるなんて、素敵じゃない？」と先生が不思議そうに言う。
「せやかて、猫に変身するだけやったら別に普通の猫でええやん？
　それなら素早く走り回ったり、爪とか牙とか色々出来るのに……
　子猫やと走るの遅いし、牙もあま噛みになってもて、
　猫好きの子に見つかろうもんなら追いかけ回された挙句モフられるし……
　大体なんで普段猫気にしてへん人まで構おうとするん？
　確かに見た目子供っぽいかもしらんけど、それにしてもろっこんまでやなんて酷いわ！」
　ムキーと大声になる満帆、どうやらこのろっこんで変身できても、これまであんまりいい目に遭ってこなかったようだ。次第に興奮してくる彼女に、
「直風さん、これでも飲んで落ち着いて……」
　と先生が差し出したホットミルクに、
「弥生せんせまで、うちを子供扱いするん！？」
「あら？　ごめんなさい……好きそうかな、って思ったんだけど」
「うちこれでも高校生やねんで！」
　と椅子の上でピョコンと跳びはね、さあ満帆が怒り出した。
「せやのにお巡りさんは補導しようとしよるし
　映画館の受付は小学生や言うて聞かんしなんでやねん！
　生徒手帳出しとんのやしちゃんと見ぃっちゅうねん！
　服だってキッズサイズで可愛いのん多いけど余計子供っぽくなってまうし！
　まゆちゃんせんせは中学生に見られるて悩んでるみたいやけどあんだけ胸あったらええやん！
　うちなんかこのままやったらどないせぇっちゅうねんーー！！！」
　早口でさんざんまくし立てた挙句、ぜえはあと息切れして、
「……なあ、弥生せんせ……どないしたら弥生せんせみたいに大人な女性になれるん？（涙目）」
　いつの間にか相談内容が変わっちゃってる満帆に、しかし樋口先生は落ち着いてこう答えた。
「あら、直風さんはもう充分、大人だと思うわ」
「エエッ！？　どこがやねんな！」
「だって、今話を聞いていて思ったけど、あなたは自分のことがよく分かっているもの。
　ろっこんのお話も、そう。子猫だと何が出来ないのか、ちゃんと試してもう知ってる。
　自分にどこまでのことが出来て、何ができないのかを分かってる、
　直風さん。あなたみたいな人のことを、大人って呼ぶんじゃないかしら」
　ポカン……と聞いていた満帆だったが、ハッと、
「い、イヤイヤイヤ……だまされへんで！？
　うちは、せんせみたいに何でも出来る格好エエ大人になりたいねん！」
「ううん、それは違うわ、直風さん。１人で何でも出来なくたって、いいのよ。
　自分に出来ないことがしっかり分かっていて、誰かに助けを求められるのが大人なの。
　子猫の姿で出来ないことがあるなら、誰かに助けてもらえば、それでいいの」
「助け……を？」
「そうよ。だってあなたはこうして、私に悩みを相談しに来てくれた。
　だからそれだけでもう、充分あなたは大人なんだって、先生は思うな」
　そう言って、樋口先生はにっこりとマグカップを差し出すのだった。


【奈良橋 博美の場合】

　放課後の、音楽準備室。
　楽器の倉庫も兼ねているこの部屋は、埃よけのカバーが掛かった木琴や打楽器などが並び、独特の雰囲気がある。物音が吸われるように静かなくせに、どこか楽器たちが囁き合っているようにも見える。
　体育科の奈良橋 博美には、あまり馴染みのない場所である。
　キョロキョロと落ち着かなさげに部屋の中を見回している博美に、
「どうぞ、カモミールのハーブティよ」
　お茶を勧めて、自分もカップを傾ける樋口先生。
「うん、いい香り」
　美味しそうに飲む先生につられて、飲み慣れないお茶を博美も口にする。いつも家の道場で修練に明け暮れている彼女には、お茶の時間を楽しむような習慣は無い。
　林檎のような甘い香りは、正直苦手だと思ったけれど、我慢して飲んでいるうちに、何となくじんわりと、気分が落ち着いてきたような気がしてきた。
「それで樋口先生、俺の悩みなんだけど……」
　はきはきとしたいつもの物言いが珍しく淀み、視線が泳ぎだす博美の次の言葉を、じっと待つ先生。
「その、ろっこんを使うことで、胸が小さいままになるんじゃないかと、最近心配になっていてさ」
　ぶほっと樋口先生が、お茶を吹いた。
「ああっ、ひどいぜ先生！
　真剣に聞いてくれるって、さっき約束したじゃんか！？」
　猛抗議する博美に、先生も神妙な顔になって、
「そ、そうね本当にごめんなさい。ええと……
　ろっこんを使うと胸が……って、どういうことなのかしら」
　博美は自身のろっこん、【トンビの飛翔】の能力を先生に説明し、
「空を飛ぶことであまり胸が大きくならなくなっているんじゃないかな？
　って最近、考え始めるようになったんだ」
　と自分のぺったんこの胸を、しげしげと見下ろす彼女。
「ええと、ちょっと良く分からないんだけど、
　例えば、身体の成長に使われるはずの栄養が、
　ろっこんの発動に吸い取られて、胸が成長しない……とか、そういうこと？」
「あと、空気抵抗とか？　ほら、競泳選手と一緒でさ。
　勿論使うべき時に使うつもりは変えないし、
　今さら女らしさというのもなんか違うとは思うんだ。
　それでも、胸が大きい人達を見るともしかしてろっこんを使っていることが、
　大きくなるのを邪魔しているのかな？と考えちゃうんだよな」
　ふだんは女として見られることを嫌い、男子制服を着用している博美だったが、その裏ではどうして、なかなか複雑な乙女心があったのである。
「先生、俺はどうするべきなんだろう。
　俺自身、格闘するのに胸が大きいのは邪魔だと正直思うから、
　そこまで深刻に考えているわけじゃないんだけど。
　なるようになるしかないのかな……」
「そ、そうね……ろっこんの使用が、あなたたちの身体に及ぼす影響は、
　まだこの力を知り始めたばかりの私には、よく分からないんだけど。
　でも、胸の大きさとはたぶん、関係ないと思う」
「そっ、そうかな……」
「はい。関係ありません（きっぱり）。
　胸が大きいもれいびさんだって、あなたのお友達にもきっと、いるでしょう？」
　そう言われてみれば、確かに何人か思い浮かぶ。
「さっき聞いた話だと、あなたのろっこんは、
　ずっと空を飛び続けられるような能力でもないみたいだし。
　空気の抵抗とかも、別に関係ないんじゃないかな」
「そ、そっか……ろっこんが関係無いなら、
　じゃあ俺の胸は、ずっとこのまんまなのかな」
　深刻じゃないと口では言いながら、どことなくしょんぼりした彼女の様子に、
「あら大丈夫よ、まだ１６歳でしょう？　成長期なんだもの。
　それに仮に小さいままだって、気にせず大人になった人は、いっぱいいるわ」
「……あれ？　先生って、もしかして」
　いつも着物姿のためよく分からなかったが、そういえば……とその先生の胸を見つめる博美。
「あら、何のことかしら……フフフ」
　そう言って先生は、スッと背を伸ばしてすましてみせるのだった。