FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　優木遥斗の朝は早い。
　午前5時前に起床する。まだ暗いうちに軽装に着替え身支度を終えると、肘の関節からはじめて全身行き渡るよう、入念に柔軟体操を行う。そうしてスニーカーを履き、日課のランニングに出かけるのだ。
　自主的に行っているトレーニング、真冬でも雨でも、台風でもこないかぎり欠かしたことがない。雑念とも無縁だ。走り出して最初の角を曲がるあたりまでは、ほとんど自動機械みたいに体が動く。
　朝刊配達のバイクとすれ違い夜勤明けの『夏の宮殿』警護兵の一団を追い越し、急な坂を駆け上がり駆け下ってほぼ6キロのコースを走り終えると、寮に戻るまではダウンを兼ねたスローペースで走りつづける。
　誰にも言ったことがないが、実はこの日課において、一番遥斗の肩に力が入ってしまうのはこの短い距離だった。呼吸や心拍数を整えるための時間だというのに、逆に早まることすらある。
　見えてきた。
　花屋だ。
　朝の早い業態なので、すでにシャッターは開いている。店先に夏の花々がならびはじめていた。かぐわしい香が流れてくるようだ。
　鉢植えを運んでいた女性店員が、遥斗に気づき作業の手を止めた。
「優木くん、おはよう」
「五葉さん、お早うございます」
　すでに歩き始めていた遥斗は、足を止めて頭を下げた。
　五葉泰子（ごよう・やすこ）、花屋の店員だ。年齢は、二十歳をいくらか超えたくらい。目のくらむような美人ではなくむしろ地味で、店の名が入ったグリーンのエプロンが似合う姿だが、その笑顔は魅力的だった。
　彼女の声を聞くだけで、遥斗の背筋は伸びる、疲れのたまった四肢も気分も、ふっと軽くなるように思う。
「今日も暑くなりそうね。熱中症に気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
　いくらか語尾が裏返ったような気がして、遥斗はそっと下唇を噛んだ。
　毎朝ランニングでここを通りかかっているうち、泰子から声をかけられ、立ち話程度だが親しく話すようになっている。
　やがてわかったのは、泰子も遥斗と同じく日本からの帰化者だということだった。
　公国籍を得るには一定の審査がある。公にされたことはないものの、それは『ろっこん』を有することだというのがもっぱらの噂だ。とすれば彼女にも、自分と同じような能力があるのだろうか。
「どう最近、学校のほうは？」
「順調です。再来週には大会の予選があるので、調整に入り始めました」
　といった他愛もない話をしながら、遥斗はウェアのポケットに手を忍ばせていた。
　プラスチックのケースに指が触れる。
　今日こそは、と思う。
　今日こそは渡したい。
　五葉さんに、と用意した猫の目シーグラスのブレスレットだ。
　明け方の海、波打ち際で必死になって探し出したシーグラス、不器用な遥斗だが不器用なりに頑張って、これを加工したアクセサリーだった。猫の目のような筋は、光源次第で七色の光を帯びる。
　五葉さんの手首に、巻かれるところを見てみたい。
　ささやかにして切なる願いである。
　逡巡は振り子のように行ったりきたりして戻れど進まなかった。やがて、
「じゃあ、がんばってね」
　笑みとともに、泰葉は花屋のなかに姿を消したのだった。
「ええ……また」
　遥斗の指先は今朝も、白いケースの表面をなぞるにとどまった。

　寮に戻ると遥斗は竹刀を取り出し、日課の素振りに入った。
　一心に竹刀を振り下ろしていると、今朝の迷いやもやもやした気持ちが晴れていくような気がする。
「……」
　陽射しが翳った。
　遥斗は手を止める。
　太陽を遮ったのは、猫の生首型をした気球だ。
　遥斗は無言で、自分たちの世界を守ってくれているはずのソレを見つめる。