●プロローグ:鐘楼
幽かな青みを帯びた骨色の空に、鐘の音がひとつ、谺(こだま)した。
寝子島高校の鐘が鳴ったからとて、普段なら誰も気にしないだろう。
学校とはそういうものだからだ。時間の切れ目をチャイムが報せる。学校の周辺に暮らす住民にとっても、公園の鳩なみの日常のスケッチに過ぎない。
鐘の音が石臼を挽くように重かったり、拡声器を通した声のようにひしゃげていたり、あるいは、ひりひりとしたノイズ混じりだったりしても、やはり気にする者はあまりない。このところ、数日に一度ほどの頻度で発生する現象だからである。最初こそ気にしたかもしれないが、それがあまりにも当たり前のように続くので、ピアスの穴を開けた後の疼痛のように、徐々に奇妙さを感じなくなっていったのだった。
無論学校側は修理を頼み業者がそれを試みたが、鐘はそんな努力をからかうように不定期の不調を繰り返し、数度のトライアルにもかかわらずついに、この現象は解決を見ることはなかった。とはいえ理由をつけぬわけにはいかず、機械の老朽化が一応の原因とされた。来年度には、新品に交換されるだろう。
だがその日、午前中に鳴ったチャイムは、何人かの足を止めたかもしれない。
なぜなら日曜日だったから。
そして、普段に増して重々しい音だったから。
葬送を知らしめる音のように冷たく、足首を鎖で縛られ海に沈んでいく人の呻きのように低い鐘の音だったのである。
五十嵐 尚輝は顔を上げた。
休日でも尚輝は学校に来ている。理科実験室だ。ここで試験問題を作成したり、趣味の科学実験をしたりして過ごすのが彼のお気に入りの日曜日の過ごし方なのだった。今も、ビーカーに結晶ができるのを待ちながら、パソコンを立ち上げて学年末テストに載せる図を組み立てていた。
尚輝の集中を途絶えさせたのがこの鐘の音だった。
休みなのに? 疑問を抱かないでもない。
いや、それよりも――。
もっと大切なことがある。尚輝はタブレットPCに表示されたアイコンに触れた。メール到着のしるしだ。
差出人は、
――芽衣子さん?
前髪を左手で払い、あらわになった両目で尚輝は画面を見直した。
今道芽衣子(こんどう・めいこ)の名前を目にするなど数年、いや、もっと長くなかったことだ。
大学院時代の同窓生、かつては彼女と目が合うだけで、どう言い表わせばいいのかためらうような、甘酸っぱい気持ちを覚えたものだった。けれどついにその想いを表現するすべもないまま、比較的長かった尚輝の学生時代は終わった。
その彼女がどうして、という気持ちより先に、尚輝を驚かせたのは自身の頭に浮かんだ言葉だった。
反射的に、芽衣子さん、と呼んだ。
もちろん知ってはいたが、これまで一度だって、それこそ心の中でだって、尚輝は彼女のファーストネームを呼んだことはなかった。『今道さん』以外の呼びかたはありえない。
しかし尚輝の戸惑いは継続しない。メールに目を通しながら、
「なら何か買って帰らないとね」
と独り言をしている。
わざわざ前髪を除けて見返すほどのものでもなかった。よく考えてみれば普段と変わらぬメールではないか。妻の芽衣子は帰宅が遅れるそうだ。学会の発表が押しているのだという。ときとして象牙の塔と揶揄されることもあるが、科学の世界に求められる厳密さは、やはりその道に身を捧げた者の一人として尚輝にも理解できることだった。
なら何か買って帰らないとね――くたくたになって帰宅する芽衣子のために、今日は早めに研究室を出よう。明後日は教授会もあることだし――。
「えっ?」
尚輝は、目を開けたまま夢を見ていた自分に気づく。
妻の芽衣子?
研究室? 教授会?
あまりに都合のいい夢だった。けれど幻と即断するには、それはあまりに自然すぎた。現実をねじ曲げたというよりはむしろ、別の現実、それはそれで当然の世界に、線路の路線切り替えのごとくスイッチしてしまったように思う。
あの世界のほうが『現実』で、むしろ今、高校の理科実験室にいる自分のほうが、夢であるのかもしれない。
だったら、
だとしたら……僕は。
尚輝はタブレットPCを持ち上げた。
メールは、来ていなかった。
時刻だけいつの間にか数分過ぎていた。
◆◆◆
●FEAR THE FORCE part2
●胡蝶の夢
日曜日の午前中、具体的には午前11時5分、あなたはなんらかの理由で、寝子島高校あるいはその近辺、鐘が聞こえる距離にいた。
そこであなたは、これまでにないほど歪んだ鐘の音を聞く。
その結果世界は、あなたが熱望してやまなかった『現実』へと移行する。
はっきり自覚していたわけではなくとも、心の奥底、無意識的に望んでいた現実になるかもしれない。
嫌悪していながらも、惹かれずにはいられない現実、ということもありえるだろう。
死んだあの人はまだあなたの傍にあるやもしれず、
実らなかったはずのかつての恋は、見事な大輪を咲かせているかもしれない。
その『現実』にあっても変わらないことが一つだけある。それは、あなたが『現在』のあなたと同時代同年齢細胞の一つ一つまで同じあなた自身だということだ。老いたあなたであったり、少年時代のあなただったりはしない。
短い夢は数分で絶える。
あなたはその『現実』こそが真実と信じ、無粋な夢に戻ったと嘆くだろうか。
それともその『現実』を偽りだとして否定するだろうか。
都合の良い夢だと一笑に付すというのも、あなたらしいかもしれない。
●変異の外側
日曜の校舎にしては人がいる――。
あなたは、部活の練習のために出てきた生徒だろうか。部活熱心な兄が、忘れていった弁当を届けに来たその弟だろうか。手洗いの水漏れを修繕しに来ていた出入りの配管工というのもありえよう。
それとも謎めいた理由で、渡り廊下の中央で独りたたずみ、なめし革のような笑みを浮かべ振り返った少女だろうか。
胡乱路 秘子のように。
「んふふっ」
密林に隠された毒泉のごとき水音を、秘子は薄い唇の間より漏らす。
にちゃり、と愉しげに。
「あの鐘の音色……人を狂わす効果があるのでしょうか?」
喉を鳴らす猫のような表情とともに、秘子は手すりに腕を乗せ、眼下の光景を眺めた。
野球部のらしき少年が、呆然と立ち尽くしている。目はここを見ているようで見ていない。指でつつけば、そのままふわりと浮き上がってしまいそうな様子だ。
そんな状態になっているのは、彼一人ではなかった。同じように、生ける屍のごとき様相の者が随所に見受けられる。
夢を見ている、そんな風に秘子の目には映った。
秘子はそんな彼らに仲間入りできぬことを、嘆いただろうか。安堵しただろうか。
……いずれにせよ彼女が、鼻歌交じりに校舎の探索を開始したことだけは事実だ。
「なんだァ?」
詠 寛美は空を見上げた。何やら黒いものが、一瞬頭上を掠めたような気がしたのだ。
誤解を恐れずに言えば、空を飛ぶ爬虫類、といったイメージだった。
蛇か蜥蜴か、あるいは、そのどちらでもないものか。
あの奇妙な鐘の音を聴いたと同時に、たしかにそれは飛んだ……と、思う。
このとき受けた肌がざわつくような感覚は、鼻岬窟で奇怪な甲虫を目にしたときと似ていた。気のせいか硫黄のような残り香もする。
「学校のほうへ……かよ」
ちょうど退屈していたときだしな、と、チョコレート色の姿のスウェットスーツ姿の寛美は思った。
彼女らと同様、あなたの『現実』も変異を遂げなかった。
体質のせいなのか、現実に満足しているせいなのか、夢見る余裕すらないからか……それはわからない。
あなたは真相を見出すべく、あるいはこの状況を観察すべく、動き出したのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
間隔が空いて申し訳ありませんでした。マスターの桂木京介です。
本作はゴールドシナリオであり、<FEAR THE FORCE> と名付けられた一連のシリーズシナリオの第二話となります。
前作『FEAR THE FORCE:前哨』に参加していなくても問題はありません。どなたでも参加できますし、歓迎いたします。(もちろん前回を踏まえた展開もありますので、読むだけ読んでおいてもいいかもしれません)
寝子島高校、この頃調子のおかしかったチャイムが、本来鳴らないはずの日曜日午前中に鳴り響きました。それが巻き起こした異変の世界(本作では『現実』と表現します)に立ち入る、あるいは、異変に巻き込まれず真相を求めるというのが主たる行動になるでしょう。
なお鐘の不調に関しては、拙作『バレンタインデーなんて知んねーし!』10ページ目で触れられています。
舞台
寝子島高校とその周辺、鐘の音が届く範囲とします。普段そのあたりにいない人は理由も作っておいたほうがいいかもしれませんね。
謎の人物
●ドクター香川:第一回『前哨』に出てきた黒幕です。王珠(おうじゅ)と呼ばれる水晶球のようなアイテムを所持しており、自分に向けられた『ろっこん』による攻撃を使い手に反射させることができます。王珠単体でも、黒光の矢を放つなどの攻撃が可能です。
●ナターシャ:その協力者、あるいは部下です。元々は異国の軍特殊部隊にいたようで、音も立てず忍び寄るなど高い戦闘力を持っているようです。
必ずこの二人、あるいはどちらかに会うことができるとは限りません。
『現実』に迷い込んでいる状態のキャラクターについて・1
歪んだ鐘の音を聴いたことで突然世界は変異し、あなたが理想とする『現実』が描かれます。
この展開を選んだ場合、思いっきり遊んでいただいて結構です。現実世界ベースの空想が基本でしょうが、別にSF世界でもファンタジーでも構いません。ただ、時間軸は変わらないので古代や超未来は難しいかもしれませんね(工夫次第では可能です)。
この展開ならNPCも出し放題です。なんならそのNPCと結婚しちゃってても大丈夫です。まあ寝子高生で実現するのであれば『高校生でも結婚できる世界』を構築する必要がありそうですが。
この状態は比較的短い時間で解除されます。※シナリオ展開によっては、何度かこの状態に陥る可能性があります。
『現実』に迷い込んでいる状態のキャラクターについて・2
第三者の目からは、茫然自失の状態となり直前の動作の姿勢のまま意識をどこかへ飛ばしているように見えます。強く揺するなどして干渉することはできそうです。
鐘の音を聴いた人間すべてがこうなるわけではありません。影響を受けない人もいます。
蟲(異形なるモノ)
カガワがなんらかの秘術を行った結果、異形なるモノが彼の護衛を務めています。昆虫を思わせる彼ら(?)を、本シナリオでは『蟲(むし)』と呼びます。
蟲は侵入者を見つけると対話する余地なく襲ってくるでしょう。色々な形状があるようですが、いずれも共通して鋭い針のような口をしているということです。
ただしそれほど強力な敵ではありませんので、格闘技をやっているキャラクター、戦闘向きの『ろっこん』を持っているキャラクターであれば、一対一なら苦もなく倒せる相手のはずです。
NPCについて
以下のキャラクターに登場の可能性があります。(行動を絡めたいかたは、彼らとはどういった関係かを書いていただけると助かります。初対面でももちろん絡めることはできます)
●五十嵐 尚輝:化学実験室で、『現実』に取り込まれます。そこでは、彼は大学院時代の同級生と結婚しているという設定です。
●胡乱路 秘子:そもそもなぜ学校にいるのかすら謎ですが、この状況を観察して回っています。特に謎を解きたいとも思っていないようです。
●詠 寛美:空に見えたものを確かめに、立ち寄る予定のなかった寝子島高校内に入りました。
●アルチュール・ダンボー(※未登録キャラクター):拙作『段ボランド de ファイト』などに登場した変な青年です。段ボールで作った戦車や恐竜を動かすことができるという『ろっこん』の持ち主です。
それでは、次はリアクションでお目にかかりましょう。
あなたのアクションを楽しみにお待ちしております! 桂木京介でした!