FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　痛みに音はない。
　ないはずなのに、チリチリと細い繊維の束が灼けるような音を朝鳥さゆるは聞いた。
　少なくとも聞いた気がした。自分の内側から。
　全身が酷く熱い。焦げた匂いを錯覚するほどに。
「…………」
　重たい瞼をゆっくりと開ける。窓から差し込む光が痛い。
　シルクカーテンの合わせ目から、火に炙った槍のような陽が射し込んでいるのだ。
　痛みとともに一日が始まるとは。
　さゆるは光を見やる。苛立たしげに。あるいは哀しげに。
　1888年作の絵画『シャロットの女』（ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス）のように。
　興ざめとまで言わずとも、いささか乱暴な朝ではないか。
　昨夜は彼に優しく愛されたのに。
　甘く幸福な快感の余韻の中で目覚める瞬間が一番好きだというのに。
　うっすらと滲んだ汗。素肌に纏わりつくシーツの感触。
　そこにいる彼──片篠藍人の胸の中。
　やがて藍人の寝息も、意識をともなった低音へと変わる。

　星ヶ丘には高級住宅がならぶが、昔日には存在しなかったものがある。
　政府高官用のマンションだ。ここはその一室である。
　鏡に向かう藍人の肌を眺めながら、さゆるは思う。
　あの華奢な背が、公国屈指の危険人物のものだと誰が思うだろう。
　藍人は、香川公王の側近として重用されている。
　表向きの職務は公安部補佐官、しかしその実は、公安部長感を上回る役職であり公国の暗部だった。職務内容は、秘密裏に抵抗勢力の芽を刈り取ること。
　藍人は多くを語らない。今朝も、視線だけでさゆるに話しかけた。
「待ってて」
　産まれたままの姿で、さゆるは寝台から身を起こした。
　待ち構えていたかのように、藍人は口づけで彼女を迎える。
　やがてふたつの裸身は、もつれあうようにしてシャワールームに消えたのだった。

　さゆるは寝子高生。成績優秀で人望も厚く、生徒会副会長を務めている。直近の会長選において剣崎エレナがトップ当選を果たした理由は、彼女が早々にさゆるを副会長に指名したことがあるという説も根強い。
　さゆるほどの逸材だ。いずれ、寝子島に移った木天蓼大学法学部を経て公国のエリートになることは確実だろう。
　実年齢より６、７歳年上に見える硬質な美貌の彼女は、制服を纏わない限り社会人にしか見えない。

　朝食は必ず彼女が作ることにしている。
　メニューはいつも同じだ。プレーンオムレツ、メルバトースト、グリーンサラダ、ブラックコーヒー。
　オムレツとトーストの焼き加減も、葉野菜のカッティングも、もちろんコーヒーの煎れ方についても、さゆるは藍人の好みを熟知しており、今朝もその基準は至高と最良の間にあった。
　黙って藍人は食事を口に運んでいる。目元に浮かぶ表情はリラックスしていて、このうえなく満足していることがうかがえた。
　ふと、藍人の視線がさゆるのそれと重なった。
　何か？　と言うかわりに藍人の目にかすかな曇りが宿った。
　何も、と言うかわりにさゆるは目を細めた。
　けれどもさゆるの心には、大理石の柱を小鳥が一度、軽くついばんだ程度の微細なさざ波が起こっていた。
　ピンセットでも摘めないようなクエスチョンマーク。
　二人とも言葉少なで、口に出しては「愛してる」とは決して言わないけれど……きっと愛している、はず。
　なぜこんなことを想うのだろう？
　疑問符は、不安混じりの灰白色をしている。
　いったい……なぜ？