FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　湯というよりは水の、シャワーを浴びた。
　濡れ髪をタオルで挟みながらドアを開けると、風が七夜あおいの頬を撫でる。ふわっとした湯気も。
　まじっているのは淹れたてのコーヒーの匂い。
　それに、ハムエッグの匂い。
「起きた？」
　カウンターキッチン。あおいに背を向けて夫が、フライパンを使っているのがわかった。フライパンから蓋を取る。水蒸気がたちのぼる。その、じゅうという音すら空腹を刺激する。
「うん、起きたよ。すっかり」
　振り返ったあおいの夫――鴻上彰尋は照れくさげな笑みを浮かべた。
「いやあ暑い暑い、火を使ってたこともあってさ。汗だくだ」
　Tシャツの袖を限界までまくって、彰尋はぱたぱたと自分をあおぐ。
「もうクーラー入れちゃわない？」
「そうしよう。私ももう、限界っ！」
　心ときめくその誘惑に、あおいは一も二もなくしたがった。『新婚高校生カップル、熱中症で共倒れ』なんて惨劇、新聞記事であっても読みたくない。ましてや自分たちがその当事者とあっては。
　二人分の朝食をテーブルにならべて、ふうと彰尋は額をぬぐう。
「シャワー浴びるよ。ごめん、先食べてていいから」
「シャワーなら」
　一緒に入ってくれても良かったのに……と、消え入りそうな声で言ってしまって、言った自分が気恥ずかしくなったのか、タオルであおいは顔を隠した。
「え？　なんて？」
「な、なんでもないっ。食べずに待ってるからっ」
「……？　じゃあ遠慮なく」
　早めに出るから、とだけ告げて、彰尋は浴室に入っていく。

　彰尋が着替えて出てくると、部屋は別天地のような涼しさだった。
　吹きつける冷房のきらめき、きっと風量は『強』、温度設定も限りなく最低に近からん。
　盛り上がりのあまり彰尋は声高らかに告げる。
「風よ、吹け、頬を破らんほどに！　荒れよ！　吹き荒れよ！（Blow, winds, and crack your cheeks! Rage! Blow!）」
　片腕を突き上げ大仰にポーズを決めた。
「えーと、それ彰尋くんがたまに練習してるシェイクスピア劇の台詞だったっけ？　『ハムレット』？」
「惜しい。『リア王』だよ」
　いやもうこの爽快な気分をどうしても表現したくて、と言いながら、彰尋はあおいとおなじ食卓についた。
「ふーん。リア王が、クーラーを浴びて叫ぶ場面？」
「はは、シェイクスピアの時代にはエアコンはなかったと思うな」
　彰尋とあおいは高校三年生、結婚して数ヶ月になる。こうしてふたり、笑いあいながらすごすことが日常となって久しい。
「そんなにスラッと台詞が出てくるんだもん。やっぱり、彰尋くんは役者の道に進んだほうがいいのかもしれないね」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、進学や就職も捨てがたいんだよなあ……色々な経験を積んでおいたほうが、演技に深みが出ると思うし」
　とまで言ったところで、急に我に返ったように彰尋はあおいを見た。
　あおいと結婚した。一緒に暮らしている。とてつもなく幸せだ。
　改めて考えてみると、ずいぶんとすごいことじゃないか。
「今日は一段と、世界が眩しいね」
　ついそんな言葉が口をついていた。
「クーラー入れたから？」
「いやまあ、それもあるだろうけど……」
　これが日常だ。その認識に間違いはない。
　それなのになぜか今日は特別というか、かけがえのない日だという気がしてならなかった。
　ああそうか、と合点がいったように彰尋は言う。
「好きな人と結婚して、一緒に登校とかできるからかな」
「毎日そうじゃない？」
　あおいはきょとんとしている。
　そうだった。毎日ふたりで部屋を出て、ならんで通学路をゆく。この日々はとうに実現しているのだ。今朝も繰り返されるのだ。
　あおいはパートナー、心の上でも、法律の上でも。
　――けれども。
　彰尋の心に蒼い影がさした。
　側にいるのに、満たされているのに、なぜか切ない。
　この気持はなんだろう。