FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　さっきのは何だ、と公王親衛隊の制服を着た兵士が同僚に問う。
「さあな」
　と彼は答えた。銃剣を構えたまま、
「いきなり『公王に会いに来ました。入れてください』でどうにかなると思ったんだろうか」
「ああいう手合いはたまにいる。いちいち相手していたらきりがない」
　とまで言ったところで、兵は急に振り向いた。『夏の宮殿』として知られる公王公邸の象牙色した高い塀を見上げている。
「どうした」
「なにか聞こえなかったか。あの上で」
　同僚は彼の目線の先を追った。
「……いや」
　それになにかあっても、と彼は言う。
「空は『テオ』の領域だ。なにかあればただでは済まんさ」
　幻聴ではなかったのだが、彼らがそれを知ることはない。
　――そうか、テオバルーンの変調は、兵員も察知してないってわけか。
　片手でヘッドフォンのボリュームを調整し、夜海霧楓はロープを握り直した。
　電流が流れていないことを確認し、塀の上に乗る。するするとロープを巻き上げる。
　夜陰にまぎれ、光を宿さぬ蛍のように、楓は夏の宮殿への侵入を開始したのだった。
　準備には時間がかかった。
　一年間バイトしながら、無線傍受機能付きヘッドフォン、改造銃、特性煙幕、照明等を楓はゆっくりとそろえたのだった。
　購入したものがほとんどだが、寝子島ではこういった道具の入手は困難なので、一通り集めるまでかなり骨が折れたものである。
　どうしても手に入らず、自作したアイテムも少なくない。今回収している吸盤つきロープにしたって、実用にたえる状態になるまでどれだけ試行錯誤を重ねたことか。
　侵入計画を立てるにあたって、一番警戒したのがテオの存在だった。
　このときも、いつあの気球が飛んでくるか、肝を冷やしながらの登攀だったのである。頂上付近で電撃を浴び、転落などしようものなら、いかな楓でも命の保証はない。
　だが実際、テオは現れずいささか拍子抜けな結果に終わった。
　――まさか誰かが、テオを機能停止させて回ってる……なんてことはねぇだろうな。
　
　このとき、数百メートル離れた地点で、エメラルドグリーンのドレスを着た豊田華露蘿が、くしゅ、と小さなクシャミをしたのだが、さすがに楓もこれには気がつかない。

　ま、バルーンのことはともかくとして、だ。
　楓は、眼鏡に仕込んだ暗視機能を作動させる。
　宮殿内の情報は、ほぼない。
　ある程度マスコミに公開されている情報を揃えても、おおまかな構造がわかるだけだ。兵士の配置、通路の構造にいたってはまったくの手探りとなるだろう。
　慎重に行動するしかねぇな。
　楓は思った。
　幸か不幸か、慎重な行動ってやつには慣れている。
　軽く息を吸い込み、今度は公邸内にロープを落とした。
　まだ引き返せるぜ、と楓の内なる声がする。
　ここを伝い降りればいよいよ、穏やかで平凡な人生とは永遠におさらばだ。あとは元の世界元の生活、こういってよければ『正史』を目指すほかはなくなるだろう。
　しかし楓は躊躇しない。蜘蛛のようにするすると邸内に降りていく。
　穏やかで平凡な人生だったとしたら、絶対に出会わなかった奴がいる。
　あいつのほうが、俺に出逢うことを理想としていないとしたら、この場にいないのも納得できる。
　元の世界でそいつが待って――と、浮かびかけた考えを楓は否定した。
　それはねぇな。
　むしろどこ飛んでくのかわからねぇ弾丸娘なんで、さっさと捕まえねぇと大変なことになるだろう。
　だから目指すんだ。正史を。
　一刻も早く、戻らなきゃいけねぇ。