FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　よう、と如月庚は告げた。
　寝子島高校の校門にもたれたまま。
　庚はスカジャンを羽織り、袖をまくり上げている。
「もうぐちゃぐちゃになってるみてぇだな。時間軸が」
　庚は空を指した。
「さっきまで夕方だったのに、気がつきゃ朝と来てる。ちょうど登校してくる生徒とすれ違ったとこだぜ。ところが今度は、校舎の時計が正午の鐘を鳴らすときた」
　庚は人差し指を立てた。虫の音でも聞くように目を閉じた。
「ほら、今から昼休みだとよ」
　確かに、歪んだ調子で鐘が鳴り始めたのだった。
「何を言ってるの？」
　怪訝な顔をして、寝子島高校体育教師ナターシャ・カンディンスキーは庚を無視して門から出て行こうとする。
「待てよ」
「昼休みにどこに行こうと勝手でしょ」
「この状況を見てもまだそんなこと言ってんのか。いい加減、気付いてないふりは止したらどうだ？」
　庚の手が、ナターシャの手首をつかんでいる。
「放して」
　彼女の声に、怯えの色が混じっていることを庚は聞き逃さない。
　庚を恐れているのではない。庚の告げようとしていることを恐れているのだ。
「なんだろうな……アンタも平穏を望んで足掻いて、藁をも掴む思いでここまで来たんだろうけどよ……結局の所背中向けたっていずれ帰ってくる。捨てたつもりがまた背負い込む。そういうもんなんだよ」
「知った風な口を！」
「若造が何を、って思ってるかもしれねぇが年齢とか経験とか……それは些細な問題だ……『過去を捨てさせられ今を捻じ曲げられた』という侮辱に対して怒りを覚えるのにはな！」
　ナターシャの体が飛燕のように跳んだ。彼女の体格からすれば驚異的な身の軽さといえよう。帽子が落ちた。束ねていた髪が解けた。
　着地したとき彼女は、黒いラバーマスクで目以外の顔を覆っていた。
「そうこなくっちゃな、『ネリンガ』」
「ナターシャだ、『子ども』」
　ナターシャは腰を落とし、間合いを測るようにしてじりじりと庚に近づいてくる。
　これはいつもの『異変退治』だ、庚は考える。
　だとすれば、いつも通りやるまでのこと。
「手加減抜きハナから全開だ、ケリを着けようぜ」
　庚は額の傷痕を指でなぞっていた。
　青白い光が右腕に宿る。一撃必殺の拳が完成する。
　しかしこれで終わらない。さらに庚は傷痕をもうひと撫でした。
　四肢に力が籠もるのを感じる。血潮が騒ぎ、筋肉がメリメリと音を立てる。服の内側で肉が膨らんでいるのだ……破裂しそうなほど！

「……何か、したか」
「したとも」
　庚の能力『青にして蒼穹』はすでに前回、ナターシャと対峙したときに見せてしまっている。同じ手が二度通じる相手ではないと庚は知っている。だからこそ、いち早く進化を発動した。そのことを明かしたのは、少しでもフェアネスを維持したいという心の現れかもしれない。
　くんっ、とナターシャが身を沈めた。黄金の豹のごとく疾（はし）る。
　跳ぶのか。
　だが一瞬にして庚は判断ミスを知る。
　足か！
　踵落としを得手とする彼女があえてスライディングを出したのは、意表を突く意図があったからだろう。足払いで浮かせ、庚の関節を固めるが狙いか。
　しかし進化した庚の肉体は、ほとんど本能でこれを避けていた。
　グランドを擦ったナターシャの頭、その真横に鉄槌のごとき拳が沈んだ。
　地面は数センチほど陥没している。
　ナターシャは動かない。
　庚も動かない。
　ただ蒼穹の余韻が、すうっと高く立ち昇っているだけである。
「……なぜ当てなかった」
「勝負はついた。アンタの顔面叩き潰して、それで俺に何の得がある？」
　立ち上がって膝をはたくと、庚は手を伸ばした。　
「……さて、行くか。親玉の所によ」
　冷めた目でナターシャを見おろす。
「アンタも来るんだよ」
「なぜだ」
「なんでって……俺が勝ってアンタが負けた。負けたら言うこと一つくらいは聞いてもらわねぇとな。それにアンタは『異変側』だ。ことの顛末ぐれぇ見届けたって罰は当たるまいよ」
　黙ったまま、ナターシャは庚の手を取った。

「――っ」
　声が漏れないよう、手を口に当てる。
　あの人たち、何をしているの。
　朝鳥さゆるは、今目にした光景が信じられなかった。
　正しくは、信じたくなかった。
　門扉そばの桜の陰に隠れ、偶然庚とナターシャのやりとり、その一部始終を見てしまったのだ。
　さゆるの疑念は、もはやゆるぎなき確信へと変化している。
　この世界はすべて偽りなのだ。少しずつ、目ざめつつあるのだ。

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