FEAR THE FORCE：夢幻泡影｜リアクション

FEAR THE FORCE：夢幻泡影

　タイムカードを滑らせる。素早く。
　読み取り計器の具合が悪く、ゆっくりやっていたのでは作動しないためだ。
　案の定、今夜も三回試してやっと打刻された。
　一度バイト仲間数人でオーナーに、この機械はもう古いし、出勤簿を手書きするようにしては？　と提案したことがある。ところがそのときオーナーは、「それを許すとおまえらサービス残業するだろう」と笑って相手にしてくれなかった。もっとずっと前、いま働いているアルバイトが誰一人いなかったオープン当時、実際にそういうことがあったらしい。
　嘘だろうとは思わない、このファミレスは、本当に居心地がいい店だからだ。
　じゃあ明日、と告げ仲間と別れると、夜海霧楓はマウンテンバイクにまたがった。
　普通の生徒――楓を知る者はそう言うだろうし、楓自身も否定しない。
　ごく普通だ。
　アルバイトし、
　学校でも他の奴と他愛ない会話して、
　平和に過ごしている。
　耳障りのいいポップ・ミュージックみたいな毎日だった。しっとりしたバラードよりは、カラっとしたアップテンポ多めの。
　興味の対象はだいたい周囲と同じ、ガールフレンドとまでは言わないが、バイト仲間の一人とは、なんとなくつかず離れずの間柄になりつつある。
　政治社会とかそういうものには興味がない。自然とか環境についても同じだ。せいぜい、アルミ缶は『燃えるゴミ』には入れないようにしている程度。『意識高い』という言葉は、相手をディスるとき以外使ったことがない。
　進学とか就職とか、そういったものに思いを馳せないでもないが、いまを生きるのに忙しすぎて、なかなかそんな遠い（？）未来のことなど意識にのぼらない。
　楓はペダルを漕ぐ足を止めた。
　下り坂に入ったので、重力の赴くままに身を任せる。
　効果音をあてるなら「スイーッ」という感じだろうか。夏の夜風はぬるいが涼しかった。
　こんな生活をはじめてそろそろ一年か。
　楓は自分が、笑みを浮かべているのだと知っていた。
　封を切ったばかりの炭酸飲料みたいな笑み。
　ポートレイトにして、詩的な青臭いタイトルをつけたくなるような笑み。
　――理想とする世界なだけあって、それなりに楽しかったぜ。
　誰の仕業か知らないが、なかなか見物だったと思う。
　折良く、テオの姿は付近に見当たらない。
　楓は急ブレーキをかけると飛び降りるようにして自転車を乗り捨てた。NBAチームのロゴステッカーが貼られた車体を無造作に蹴り倒す。アルミの車体は簡単にひしゃげた。
　楓はやはり笑みを口元に残していたが、それはいつの間にか、見る者の心胆を寒からしめるような、殺傷力の高い笑みへと変貌している。
　記憶や考え方まで理想にしてくれたんだろうが……考え方は元とほとんど変わらないのが、早々に元に戻る要因だったな。
　楓は『世界』を冷ややに眺め直した。
　空を往く猫型気球。
　誰もが幸せで、噛み飽きたガムみたくうす甘い寝子島。
　ふん、と楓は鼻を鳴らした。安っぽいパーカーを投げ捨てると、『正史』の服装が下から表れる。たとえ真夏でも、ワイシャツにネクタイでなければ締まらない。上着もだ。
　背嚢をさぐると、ちゃんと用意はととのっていた。そうこなくては。
　ハンチング帽を取り出して頭に乗せた。