●天使の羽選手権・１


　飛ぶ順番は、修が用意したクジ引きで決められた。
「一番手になるなんてね……」
　崖の上のスタート地点に立った神野 美野梨は、長い髪をひとつに束ね、ゴーグルを額の上に押し上げる。
　服装はいつもの白衣ではなく、星ヶ丘や学校のゴミ捨て場を回って入手したナイロンや端切れで作ったムササビスーツ。軽量化した全身一体型のスーツで、手足のたわみは広げたときに風を孕むようになっている。
　崖の上に立つ。五月のジェーンを頬で感じる。いざとなるとやっぱり足がすくんだ。
　湖は遥か向こうまで蒼く輝いている。
　美しいということが、こんなに恐ろしいものとは思わなかった。
　深く深呼吸する。
（怖いけど、こんな興味深い研究機会を逃す手はないわ）
　額の上のゴーグルを下ろし、眼鏡の上から掛ける。
　その瞬間、研究者スイッチがかちりと入った。
　美野梨は思い切って崖を蹴る。
「ミミさんを応援するわ！」
　五月のジェーンに乗って、身体がふわりと浮いた。美野梨は思い切って手足を広げた。
　手と胴の間、両足の間に張られたナイロンが風を孕み、一瞬、上体が上向き加減になる。
（余分な力を抜いて……姿勢を保つ……）
　研究熱心な美野梨は、飛行中の姿勢についても研究済みだ。
　空中で体勢を整えると、風に乗れた、という感覚があった。
「あ……」
　飛んでいる。
　三夜湖の上を。
　鳥みたいに。
　ほんの数秒のその時間は、まるで無限の奇跡のように感じられた。
　やがて、美野梨の身体は紙飛行機が地面にすうっと滑り下りるように、湖面を並走していたカモさん号の上に着地した。
「ナイスフライト、見事な着地ね。３８メートルよ」
　莉鳥が飛距離を告げる。
　岸に戻ると、ミミが駆けてきて抱き着かれた。
「みのりっ！」
「ミミさん」
「みのりサンクス。感謝してる」
「腕の角度を変えたら、もう少し長く飛べたかしら。研究の余地ありね」
　美野梨はミミの肩を優しく抱き返した。

◇

　美野梨を送り届け終えたカモさん号では、寝子高スク水の上にＴシャツを羽織った夏夜が、ノートに記録を取っていた。同じく寝子高スク水の上に寝子高のジャージの上を羽織った莉鳥は、崖の上の方を見遣る。
　腐れ縁で、自分を巻き込んだ雅樹は、高所恐怖症なので飛ばないようだ。今日は姿を見かけなかったけれど、飛び込みの手伝いをしているとは思えないので、多分どこかで見物でも決め込んでいるのだろう。
「なぜこうなったのかしらね」
　なんとはなしに口にすると、夏夜が顔を上げた。
「誰かのために何かするって、悪くはない。でしょ？」
「悪くはない――そうね」
　たとえ成り行きだとしても、悪くはない。

◇

　さて、その北里 雅樹だが、莉鳥の予想に反して崖の上にいた。そしてなぜか、二番手の近石 簾の廃材で作ったスチームパンクな羽根を運ぶ手伝いをしていた。金属製の羽根は、けっこうな重みで、簾ひとりで運んだり背負ったりすることが出来ない代物だったのだ。
　崖の上に立つと、下方に広がる青い海までの距離を感じて立ち眩みがしそうになる。
（どうしてこうなった？　俺は高所恐怖症なんだぞ！　他にもボランティアはいるだろう！）
　見物を決め込むつもりだったのに、なぜ選手のサポート要員として駆り出されたのか。
　いや分かっている。一人くらいは寮生の自治会員がサポート要員として入った方がいい、ということで、幽霊自治会員の自分に白羽の矢が立ったのだ。断れなった。ひとことで言えばそういうことだ。
（嗚呼！　俺！　どうしてあのとき「異議あり！」と叫ばなかった……）
「北里先輩、大丈夫か？　顔色、真っ青だぜ？」
　これから飛ぼうという簾に心配されるようでは始末に負えない。
「ああ、いや、大丈夫」
　なんとかかんとか笑みを作って、簾に羽根を背負わせ、仕事が終わったとほっとした瞬間のことだった。
　高所恐怖症から来る立ち眩みで足をもつれさせた雅樹は、うっかり崖から足を滑らせてしまった。
「うわーーーー！！！」
　
　驚いたのは、カモさん号にいた莉鳥である。
「雅樹？　落ちた？　なんで？」
　答えを考えている暇なんてない。ジャージを脱ぎ捨て水着になると、莉鳥は水に飛び込む。
　次の瞬間、雅樹が落ちてきて高い水しぶきを上げた。
「がぼがぼがぼがぼ」
「雅樹！」
　沈みゆく腕を掴んで引き上げる。
「かはっ！　た、助かった……！」
「一体何やってるのよ、もう！　ぼーっとしすぎ！　しっかりして！」
　崖の上から簾が「大丈夫かー！」と覗き込んでいる。
「すまーん！　大丈夫だ！　飛んでくれー！」
　雅樹が手を振って答え、カモさん号に助け上げられるのを待って、選手権は続行された。

◇

「びっくりしたなー。さーて、改めて俺の番だ」
　簾は自分の頬を強く叩いて気合を入れた。
　誰に投票するかも決めた。
「二番！　近石いっきまーす！」
　高々と宣言し、胸につけた自転車のペダルを腕で漕ぐ。
　キリキリキリと音がして、スチールラックの骨組みとたくさんのネジから成る金属の羽根が大きく広がった。
　おおおっと上がる声は男子のもの。やっぱり男の子たるもの、変形はロマンなのである！
「かっけぇ！」
　簾はモニターに映し出された金属羽根の自分の姿に思わず叫ぶ。
　これはいける！　確信を胸に、助走をつけて、跳ぶ！
　アユハルは後輩だし、骨削は友達だから応援してやりたいし、と誰に投票するか最後まで迷っていた簾であったが、叫んだ名は。
「さかびたりー！　がんばれー！　とうっ！」
　その瞬間、偶然にも最高の風が吹いた。
　簾はその風に乗って、羽根の角度を合わせた。
（こう、ここを引っ張るとこう……！）
　手元の紐をひくと、羽根の先が動いて、飛行機のエルロンの役目をする。
　そのまま簾は、湖のかたちに沿って弧を描くように、かなりの距離を飛行した。
　しかしスチームパンクなだけあって、羽根の重さはピカ一。落ちはじめたら重力に逆らえない。
「あっ、やべ」
　と思った瞬間、じゃぼんっと背中から湖に落ちた。
　背中の羽根は空の上では心強い相棒だったが、水中では重くてたまらない。
　がぶがぶっと水を飲み、
（だ、だめだあ～～！）
　簾はたまらず、装着していた金属の羽根を体から外した。
　大急ぎで駆けつけたカモさん号から浮き輪が投げられる。簾は必死で捕まろうと手を伸ばすも、あとちょっとが届かない。飛び込んだ莉鳥が、簾を支え、浮き輪に掴まらせてくれた。
「５２メートル飛んだわよ。大丈夫？」
　簾はげほげほと咳き込んで、答えられなかった。
　夏夜が浮き輪を引いて、簾をボートの上に引き上げる。
　咳き込みがおさまると、簾はボートの縁から身を乗り出した。
　美しい金属の羽根がきらきらと太陽を反射しながら、深い青の中に沈んでゆく。もう手が届く距離じゃない。
「ああー……俺の最高傑作が湖の底に……」
　がっかりもしたが、一方でこうも思う。
「俺のロマンは、いつか遠い未来に、オーパーツとして発掘されるのかもしれない」と。

◇

「アクシデントもありましたけど、二人が飛び終わりましたなの！」
　明里の顔がモニターに映った。
「ここで、審査員のみなさんにデザイン点を聞いてみますなの！　まずは神野美野梨さん！」
　泉先生が７、茂が８、鳶色彦が９の点数札を上げる。
「鳶色彦さん、評価のポイントを伺いたいですなの」
「そうですね、滑空に特化したムササビスーツを選んだところが興味深いと思いました」
「ありがとうございますなの。続いて、近石簾さんは？」
　泉先生が８、茂が１０、鳶色彦が５の点数札を上げる。
「おおっ、海原センパイが１０点をつけましたなの！」
「男のロマンだ」
「ハイ！　男のロマン、いただきましたなのっ！」

　明里の楽しい進行に耳を傾けながら、修がモニター脇のボードにマジックで点数を書き入れてゆく。

　骨削：合計　　　点：
　酒浸：合計　７０点：内訳　７０点（近石）
　ミミ：合計　６２点：内訳　６２点（神野）