五月病は恋の始まり｜リアクション

五月病は恋の始まり

　深夜。
　棺桶型のエレベーターはゆっくりと上昇していく。
　自身の鼓動が聞こえるほどに静かだ。目を閉じて、重力に抗う感覚を楽しむことにする。
　弥逢遊琳を載せた棺は八階、最上階に停止した。
　両開きの扉を抜け、奥まった一室を目指す。廊下は防音材が敷かれており靴音ひとつしない。
　目指すドアにたどりつき、カードキー型の合鍵でセンサーに触れる。
　チッ、と舌打ちのような音を立ててロックが外れた。
　ドアを開けても声はかけない。家主は大体留守だから。
　勝手知ったる他人の部屋、迷うことはなかった。向かう先は寝室だ。
　明かりのスイッチを手で探り、親指でしっかりと押した。
　控えめの照明がうっすらと灯る。やはり部屋の主はいない。
　わかっているし、わかっていた。
　白黒とダークブルーでまとめられた部屋は深海を思わせる。神経質なほどに片付いていて、その分、モデルルームのように生活感がない。
　遊琳は無造作に踏み込むと、部屋の隅に横たわり、膝を抱いて丸まるのだった。やわらかなカーペットの上に。
　いま自分に必要なことがあるとすれば、それは『存在すること』だけだと遊琳は思う。その考えに従う。
　だから遊琳は胎児のように、眼の焦点を合わせず情動のすべて捨てて、ただ在るだけの状態に我が身を置いた。
　鼈甲色の瞳に、家具のダークブルーが映り込んでいる。

　あの子は何も変わらない。
　水底から気泡が浮き上がるように、そんな考えが遊琳の中に浮かんでは消えた。
　何も変わらない。
　僕が何をしても。
　譬（たと）え彼が僕を憎からず思っていても、僕が邪魔になればあっさり排除するだろう。
　誰かの為には何一つ曲がらない。
　僕の所為などでは汚れも歪みもしない。
　その事実に、安心する。

「……次に椿が落ちる頃が良い」

　と唇を動かしたのは遊琳自身なのか、遊琳の体を借りた彼の言霊なのか。
　思考は巡る。DNA構造のような螺旋を描く。とめどもなく廻り続ける。
　僕が僕でしかない事を追い求めた先に自らの終わりを自分で選びたいと願うようになったと知れば友人達は止めようとしてくれるけれど彼だけはきっと笑ってそれを許すだろう――。
　だから、

「すきだよ」

　ふたたび唇が動いた。遊琳がそうと意識していないにもかかわらず。
　ある作家曰く、胎児も夢を見るという。しかし胎児は己（おの）が母親と未分化の状態ゆえ、母の思考の影響を直接受けるともいう。
　いま遊琳は一個の胎児かもしれない。そして『誰か』の思考の影響を受けているのかもしれない。
　思考の螺旋が回転する。
　――。
　僕の幸せとは、
　そんな問いに正解なんてある筈は無くて。
　それならせめて自分が納得・満足できる生でなければと思う。
　だから僕は此処へ来る。
　今はまだ、この部屋の主が僕と同じやり方で僕を大切にしてくれる事に甘えて、
　僕が僕で在る事を妨げるものを一時全て僕から遠ざけて守ってくれる此処はあの子そのものだから。

　遊琳は瞳を閉じた。そして、開いた。

　青いお月さまの瞳を思い出せば悪夢の気配が遠退く。

　嗚呼きっと今日はこのまま眠れるだろう。

　眠れるだろう。

　……。
　

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