ほっと、できる場所｜リアクション

ほっと、できる場所

　理科室を好きな人間がいるだろうか。
　人体模型の太郎君に骨格標本の花子さん。薬剤の入った磨り硝子の瓶のラベルは経年劣化で読めなくなり（その上なぜか剥がそうとした痕があったり）、ホルマリン漬けの標本瓶は見たくなくてもまず最初に目に飛び込んでくる。まあ総じておどろおどろしかったりするのだ。
　けれどそんな理科室（というよりは実験）を愛する余り、半ばそこの主と化して日々を過ごす変わり者がいる。寝子高教師五十嵐尚輝だ。
　そしてそんな偏屈な教師を愛する余り今日も足繁く理科室に通う女生徒がいる。それが今廊下を歩いている御巫時子だ。

　艶やかな三つ編みを揺らし、時子は北校舎の理科室に向かう。すると通りすがった友人から声をかけられた。
「何かいいことあったの？」
　え？　と振り向き時子は逆に友人に問うた。どうしてそんな事訊くの？
　友人は笑って言った。だって時子さん、笑顔で歩いてるんだもの。
　驚いて時子は廊下の窓硝子を覗く。そこには少し頬を上気させ隠し切れない喜びを瞳に浮かべている少女がいた。
　時子は気恥ずかしさに両手を頬に当てる。これでは全世界に自分の恋心を露わにしているようではないか。
　時子は友人にごにょごにょと何かを言いながらその場を離れた。急いでこの火照りを冷まさないと。先生に変に思われてしまう。

　理科室の前に着いた時子は、胸に手を当て、深呼吸。いつも、通り。この扉の向こうにはいつも通り先生が待っている。
　時子は白く細い指で軽やかに扉をノックした。
「尚輝先生、今よろしいですか……？」
「はい、どうぞ」
　落ち着いた、優しい声。時子はほっとしながら理科室の扉を開けた。
「ああ、御巫さんですか」
　何か書き物をしていた尚輝はその手を止め、顔を上げた。時子は微笑みながら机の端にあったお弁当箱の包みをそっと持つ。尚輝のために作った時子手作りのお弁当。その軽さに時子の頬は緩む。今日も先生は全部食べてくれた。
「ご馳走様でした、御巫さん。少しコーヒーでも飲みますか」
　声をかけてくれた尚輝に時子は弁当箱を仕舞いながら言った。
「はい、先生」

　理科室に漂う芳しい香り。尚輝の傍に座って飲むコーヒーは、いつもとても美味しい。もう珈琲はビーカーでないと飲めない、と思うくらい。
　ゆったりと流れる時間の中で、時子は尚輝と様々な話をする。今日の話題は、動物園の事。
「この前動物園に行ったのですが、先日生まれたホワイトタイガーの赤ちゃんがとても可愛かったんですよ」
「名前の応募もしてたので、『雪』と書いて応募したんです。真っ白でふわふわしててパウダースノウみたいだったので」
「そしたら名前が採用されたんです。びっくりしました。今度雪ちゃんに会うのが楽しみです。もちろん鳥さん達もですけど。先生は最近動物園に行かれましたか？」
　時子の話を尚輝は頷きながら聞いている。その瞳は厚い前髪に隠れて見えないけれど。
「……そういえば、動物園なんてしばらく行ってないですねえ」
　なんて言う尚輝に向かい、時子は笑顔で言った。
「では先生もぜひ雪ちゃんに会いに行ってあげてくださいね」
　本当は一緒に行きたい乙女心を時子はそっと胸に隠す。その代わり、こう言葉を続けた。
「コーヒーのおかわりはいりますか……？　今度は私が淹れましょう」
　せめて今のこの時間を、もっと一緒にいさせて下さい。

　こうして今日も素敵な時間を過ごし、時子は理科室を後にする。空のお弁当箱を持って。
　理科室で過ごす時間は、私の宝物。先生の傍が、私の安らげる場所。
　……あなたも、そう思ってくれていたらいいのに。

　時子は今日も理科室に足繁く通う。そこに愛しい主がいる限り。