ほっと、できる場所｜リアクション

ほっと、できる場所

　―――久しぶりにあの薔薇園に行ってみようか。
　大学帰りの昼下がり。５月の青く澄んだ空を仰ぎながら仙藤紫は思い立った。
　草木は柔らかい葉を生い茂らせ、命の歌が聞こえる５月。紫の大学生活も1ヶ月を過ぎ、毎日様々な新しい事に出会いながらも充実した学生生活を送っている。けれど。
　そう。人は走り続ければ疲れてしまうものなのだ。公私ともに順調であるが故に、紫の心も気付かぬ内に息上がっていたらしい。
　そんな時に薔薇園を思い出したのだ。小さい頃の思い出が詰まった、あの美しい場所を。
（長く行ってないけれど、まだあるかしら……）
　知らずに求めていた心の休息。紫は春風にその艶やかな黒髪を乗せ、歩き出した。

　あの薔薇園の存在を知ったのはいつの頃だっただろう……小学校に入学して間もない頃だったように思う。友達とかくれんぼをしていて、その時にたまたま入り込んだ先が薔薇園だった。
　薔薇園というと少し大げさかもしれない。旧市街にある個人宅の大きな庭に、良く手入れされたたくさんの薔薇がまるで童話のように咲き誇っていた。
　今でもその時の感動は忘れない。秘密の花園のような可愛らしくも美しい薔薇園に、幼い紫は言葉を失い立ち尽くした。
　その時後ろから優しい声がかけられた。そこで紫は初めて自分が人の敷地内に忍び込んだ事を知り、ひゅっと肩を竦めた。怒られると思ったのだ。それでも恐る恐る後ろを振り返ると……年配の夫婦がにこにこと笑って小さな紫を見つめていた。

　その時からここは紫のお気に入りの場所になった。
　嫌な事があっても、暇でぶらりと立ち寄った時でも。薔薇園の老夫婦は温かく紫を迎えてくれた。
　美しい薔薇に囲まれ夫婦と過ごす午後の時間。それは紫が屈託なく過ごせる時間だった。ジュースが紅茶になり、その茶葉について夫婦と話すくらいになっても。紫と夫婦の親交は続いていた。

　けれども高校生になった辺りから少しずつ足が遠のいていった。紫は体育会系の部活にも入ったので、学生生活が忙しくなったのだ。
　紫は安心していたのだ。あの薔薇園はいつでも変わらずあそこにあると。
　しかし薔薇園というのはいつも同じ薔薇が咲いている訳ではない。少しずつ開花時期が違う種類を植え、咲き誇らせてるに過ぎない。変わらないのではないのだ。時が過ぎれば花は散る。それが命あるものの必定なのだ。
　最後に薔薇園を訪れたのは高２の春。それからしばらくすると、薔薇園は入れなくなっていた。―――夫妻は、事故で亡くなっていた。

　訃報を聞いたその夜、紫は自分を包み込んでくれた薔薇と夫婦の優しさを思い、ベッドの中で１人声を押し殺して泣いた。
　あれから２年。薔薇園はどうなってしまったのだろうか。
（多分もうなくなってる、と思うけれど……）
　紫は久しく通っていなかった道を歩く。あの角を曲がればすぐだ。
　地図にも載っていないような土が剝き出しの小道を抜け、裏の門扉に手をかける。茂る木々を掻き分け、紫は目を見張った。

　そこには、時が止まったかのようなあの頃の美しい薔薇が咲き誇っていた。

「う……そ……」
　紫はふらふらと庭園に入り、幼き頃と同じように立ち尽くす。と、背後から優しい声がした。
「あなたは……紫ちゃん？」
　紫が驚いて振り返ると。中年の夫婦が笑顔で紫を見つめていた。

　彼らは、亡くなった老夫婦の息子夫妻だった。老夫婦の死を機に、寝子島に帰りこの薔薇園を継いだのだという。
　彼らは紫の事を知っていた。
「薔薇園に可愛いお客様が来るとは聞いていたけど……こんな美人な娘さんになられてるとはねぇ」
　３人で昔と変わらない薔薇園を巡る。紫は大きくなっていたし、老夫婦はもういないけれど。
　それでも、あの時と同じように薔薇は咲き誇ってくれている。
　また、ちょっと疲れた時にはここに来よう。
　素敵な薔薇と優しい笑顔が、私を迎えてくれるから。