ほっと、できる場所｜リアクション

ほっと、できる場所

　ひび割れ、半分ほど欠けてしまっている天井に近い窓ガラスに、冴え冴えとした白い月がポッカリと浮かんでいる。
　紗雪幽はその月明かりを浴びながら、スマホの画面に見入っていた。

　ここは、シーサイドタウンにある廃工場だ。壁も屋根も何もかも青いその異様な外観から、青空工場跡と呼ばれているが、昔は人形を作る工場だったらしい。
　床に転がる少女の頭部、段ボールに入った山盛りの眼球パーツ。工場のあちこちには薄気味悪い、もう人形とは呼べないような謎のオブジェが置かれ、この工場の不気味さを一層際立たせているが、それらはこのおどろおどろしい工場跡に忍び込む物好き達の作品群なのだ。
　そしてそんな物好きの1人が幽であり……実はここは彼のお気に入りの場所だった。

　幽はスマホの画面から目を離すと、脇にあった人形の脚に手をやった。さて、どうするかな。また気儘に人形を組み立ててもいいし、スマホをいじってもいいし。
　時は深夜近く。幽はいつも放課後直接バイトに行ってからここに来るので、制服姿のままだ。こんな所を大人に見つかったら、確実に見咎められるだろう。このちょっとドキドキするスリル感は、幽にとっては心地のいいものだったし―――そしてここは不思議と落ち着ける空間だった。
　なぜだろう。幽は人形の脚を弄びながらぼんやりと考える。普通の人間は気味悪がって近付かないし、わざわざ来る物好きはこの不気味さに刺激を受けての事だ。でも、俺は前に来た時から、ここはとても落ち着けると感じたんだ。
　生命を吹き込まれる事なく工場の床に転がる人形達。動かなくなったベルトコンベア。命の、時の止まった空間は、寺に生まれた幽にはとても馴染み深いものだった。そう、ここは墓場に似ているのだ。命の灯火を消した者達が、現世で唯一集える場所。

　幽は月明かりを浴びながら、ゆっくりと深呼吸した。人の話し声も、物音も、一切しない。どうやら今夜は人形遊びをしようとする酔狂な輩は来ないらしい。
　幽は切れ長の瞳を閉じ、しんとした工場の気配に耳を澄ませた。
　それにしても……みんな、感じてないのかな。この暗闇に蠢く気配に。

　何の気配なのかは分からない。ここを訪れる物好きが残したものなのか、どこかが欠けたまま転がらなくてはならない人形達のものなのか。それとも……それ以外のナニカか。
　幽は薄く目を開けクスリと笑った。悪戯っぽい赤鈍色の瞳からドキリとするような眼光の鋭さが覗き、周囲の暗闇がぞわりと澱みながら揺れた。
（ああ、怯えなくていいのになー。俺は何もしないし）
　何を見ているのだろうか。幽は暗闇に向かって微笑んだ。
　俺はね、嫌いじゃないんだ。何の気配かは分からないけど、1人じゃないっていうのは、とても落ち着く。小さい頃からずっと、そんな気配に囲まれて育ってきたから。

（……さてと、帰るかな）
　スマホの時計ちらりと見ると、幽は髪を掻き上げ立ち上がった。耳朶の赤いピアスが月光を吸い取るように輝く。
　と、カタン……と彼の背後で音が暗闇に木霊した。ここは誰もいない……少なくとも生きている者の気配はない空間。生命は月明かりを浴びている幽のみ。
　―――うん、分かるよ。こんな夜は独りでいたくないもんな。
　幽はゆっくりと振り向き、闇に向かい楽しそうに笑った。

「月が綺麗だよ……そう思うだろ？」

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