深夜激走！　寝子島仮装マラソン大会｜リアクション

深夜激走！　寝子島仮装マラソン大会

　屋台側の騒がしさから目を離してみれば、そこには違う風景がある。花嫁衣裳に身を包んだ、白いたおやかな女性。それは星ヶ丘教会のシスター、ゼシカ・ホーエンハイムだった。神の花嫁たる彼女のこんな姿は、この日を除いては今後一切見ることができないかもしれない。

今日彼女があえてこの衣装を選んだのは、教会によく来る信徒の老婦人から譲り受けたものだったからだ。
「シスター・ゼシカは私にとって大切な娘のような方。私にはもう必要のないものですし、イベントのついでと言っては不謹慎かもしれませんけれど……」
彼女はそう言い、ドレスを託してゼシカに仮装マラソンへの出場を勧めてきたのだった。聞けば寝子島にゆかりのある人たちが隔てなく参加し、交流することができるイベントなのだと言う。地域の人々との触れ合いを何より大切にしたいと考えていたゼシカは、一も二もなく参加を決めたのだった。
　ゼシカは静かに祈りを捧げる。ブーケの代わりに手にしたのは花篭だ。中には花ではなく、小型の聖書が入っている。慈愛に満ちた笑みを浮かべてゼシカは興奮高まるランナーたちの戦列をしばし離れ、一般の人々が集まる場へと歩み出た。
「どうぞお読みになってくださいませ。何かお困りのことがあれば、星ヶ丘教会をお訪ねくださいね」
　ありていに言えば布教活動だ。しかし純白の花嫁に微笑まれて悪い気持ちのするものがいるだろうか？　宗教に苦手意識を持っている者も、信仰とは無縁の日々を送る者も、邪気など微塵も感じさせないゼシカの手からは小冊子をつい受け取ってしまうのだった。

　立烏帽子がふらり、ふらりと揺れている。上穗木千鶴は平安時代の男装の舞踊家、白拍子の仮装をしていた。源義経の寵を受けた舞の名手、静御前をイメージしたそれは紅と白との配色が鮮やかで、千鶴の黒髪と好対照をなしていた。長い前髪が邪魔さえしていなければ、瑠璃色の瞳がさらに美しいひと色を差していることに多くの者が気づいただろう。

　間もなくスタートを控えている、午前零時前。いつもの彼女なら午後九時には床についている。こんな時間に千鶴が起きていられるわけがなかった。目は半分閉じかけ、隙あらば船を漕いでいる状態で、もはや立っているのが不思議なくらいである。八十八旗信彦が出るなら自分もと思い、無理を押してここまでやってきたのは立派だったが、残念ながらその彼の姿を見つけることはできないままだった。
「見て、あの静御前ちゃん！　ちっちゃくてかわいい！」
「ずっと眼を閉じているけど、瞑想中なのかな？」
「きっと舞のための精神集中よ」
観客たちがささやきあい、カメラを向けても、そんなことで千鶴の眠気は醒めるはずがない。彼女にとってこの時間は、想像することすらできない未知の世界なのだ。会場まで事故にも遭わず、途中でギブアップすることなくやってこられたのは奇跡に近かった。
　千鶴の首ががくりと落ち、そのまま倒れそうになる。自分の身に危険が迫っている、そのことさえ気づけないほどの睡魔に囚われている体をそっと支えたのは花嫁姿のゼシカだった。
「まあ大変。大丈夫ですか？」
千鶴はむにゃむにゃと何かをつぶやいている。寝言で呼ぶそれは、誰か大切に思う人の名であるようにゼシカには聞こえた。
「どなたかをお待ちなんですね。それとも、夢の中で会っているのかしら」
まどろむ黒髪の白拍子を、金の髪流れる花嫁が支える光景は、それ自体がまるで夢のような光景だった。二人が立つのがスタジアムのトラックであるのは、なかなかにミスマッチというか、シュールであったが。
「スタートまでは私がそばにいますわ。安心してくださいね」
聞こえているのかいないのか、千鶴はこっくりとうなずいた。

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